第四部 余白の代償
第9章 三百円で売れたあと
久保からメールが届いたのは、ZINEの即売会から一か月ほど後だった。
件名は短かった。
『乗り換えの途中』について
水野は昼休みにメールを開いた。先日の冊子を買ったことへの礼に続いて、追加印刷とオンライン販売を始めたことが書かれている。
最後の二行だけが、前の内容とうまくつながっていなかった。
おかげさまで前より読んでもらえるようになりました。
ただ、次のものがなかなか書けなくなっています。
売れなくて書けないのではない。売れたために、次が書けない。
水野は本文を最初から読み直した。
メールの末尾には、近くで開かれる小規模な販売会への参加予定があり、水野は「当日、伺います」と返信した。
会場は、古書店の二階にある小さなイベントスペースだった。壁際に机が六つ並び、中央には来場者がすれ違えるほどの道が一本通っている。
水野が着いたとき、久保の机の前には三人の客がいた。
『乗り換えの途中』の横には、新しい冊子が積まれていた。題名は『閉まるドアの前で』。前作と同じ白い紙に、黒い線で電車の扉が描かれ、価格も三百円だった。
久保は一人目の客へ冊子を渡し、別の客から千円札を受け取って釣り銭を返していた。その途中で、三人目の客が声を掛ける。
「前の冊子、ネットで買いました」
「ありがとうございます」
「次もオンラインに出しますか」
「出す予定です」
「いつ頃ですか」
「来週中には」
答えるまでに、わずかな間があった。客は気に留めた様子もなく、新刊を一冊手に取った。
水野は少し離れて待った。
久保の机には、前回にはなかったものが増えている。釣り銭の缶、透明な袋、テープ、封筒、住所を書いた紙、配送方法を説明する案内。机の下には、段ボール箱が二つあった。
客が途切れると、久保が水野に気づいた。
「来てくださったんですね」
「メール、気になったので」
「すみません。変なことを書いて」
机の内側にあった折り畳み椅子を勧められ、水野は久保の隣へ座った。
「売れてるんですね」
「前よりは。最初のイベントのあと、紹介してくれた人がいて、それから少しずつ注文が来るようになりました」
「よかったじゃないですか」
「よかったです」
返事は早かった。喜んでいないわけではないらしい。
「三百円にしたのも、間違ってなかったと思います」
「知らない人の文章に、最初から千円は出しにくい」
「今でも、そこは変わっていません」
久保が見せたオンライン注文の一覧には、注文番号、冊数、発送状況が並んでいた。
「一冊なら三百円です。送料を足しても、試しに買ってもらえる金額だと思います」
「それなのに、書けない?」
「売る仕事が増えました」
新しい客が机へ近づき、前作と新作の違いを尋ねた。久保が内容を説明すると、客は二冊とも買っていった。
「今みたいなことです」
久保は言った。
「イベントなら、まだ分かりやすいんです。ここで話して、その場で渡せるので」
「オンラインは違う?」
「一冊注文が入るたびに、決済と住所を確認して、封筒へ入れて、宛名を書いて発送します。発送した連絡もします」
「一冊ずつ?」
「今は一冊ずつです」
「まとめて送らないんですか」
「注文が来たら、早く送りたいんです」
久保は、そこだけ少し言い直した。
「三百円の冊子だから、というより、読みたいと思って買ってくれたときに、何日も待たせるのが嫌で」
安い商品への過剰なサービスというだけではなかった。注文が入れば、すぐに読者の手へ渡したい。その速さも、久保にとっては冊子を売ることの一部らしい。
「製本も自分で?」
「はい。印刷して、折って、順番をそろえて、中央を留めています」
「何冊くらい作るんですか」
「最初は二十冊ずつでした。今は五十冊です」
「増やしたんですね」
「五十冊作ると、売れ残るのが不安になります。二十冊だと、なくなるたびに作り直すことになる」
一冊だけなら薄く、軽い冊子だった。五十冊になれば、机の下で紙の塊になっている。
「問い合わせも増えました。まだ届かない、住所を間違えた、二冊頼んだつもりが一冊だった、前の冊子も一緒に買えるか」
「それも一人で返してる?」
「ほかにいないので」
机の端のスマートフォンには、未読を示す印がいくつか残っていた。
「仕事から帰って、注文を確認します」
「書くのは?」
「そのあとです」
「何時くらい?」
「書き始められたら、十一時くらいです」
「始められたら?」
「印刷する日もありますし、袋がなくなって買いに行く日もあります」
二人の会話が途切れると、下の古書店から、硬い表紙同士が触れる音が聞こえた。イベントスペースでは、別の出展者が自分の冊子を客へ説明している。
「文章を書くために始めたんです」
久保が言った。
「でも、売れるほど、書く前の仕事が増えます」
指の横には、紙で切ったような細い傷があった。
「値段を上げたら?」
口にしてから、水野は答えを急いだと思った。
久保は否定しなかった。
「考えました」
「上げないんですか」
「三百円で買ってくれる人が、五百円でも買うかは分かりません。それに、価格を決めた理由は今も正しいと思っています」
知らない書き手の文章へ、最初から大きな金額は出しにくい。実際、三百円だったから手に取った人がいる。
売れたからといって、冊子の役割まで変わったわけではなかった。
「三百円が間違いなんじゃなくて」
久保は言葉を選びながら続けた。
「三百円で売るやり方が、まだできてないんだと思います」
水野はノートを開き、冊子が一冊売れたあとに久保が行うことを、最初から並べてもらった。決済と住所の確認、封入、宛名書き、発送連絡、問い合わせ、在庫確認。冊子が減れば、紙を買い、印刷し、ページをそろえ、折り、中央を留める。イベントには申込み、参加費、搬入、釣り銭、告知、売上記録、売れ残りの持ち帰りもある。項目は二十近くになったが、その中に「書く」はなかった。
机の前へ来た客に久保が新刊を一冊渡し、三百円が缶へ入った。硬貨の音が消えてから、水野は尋ねた。
「値段を上げる以外で、減らせそうなものはありますか」
最初に出たのは発送だった。毎日ではなく、火曜と金曜の週二回へまとめる。久保は「遅いと思われませんかね」と抵抗したが、購入時から発送日が分かっていれば、待たせたことにはならないかもしれないと考え、スマートフォンのメモを書き換えた。
製本は、前作二十ページ、新作二十四ページと毎回変えていたページ数を、次から一定にする。文章を無理に合わせるのではなく、冊子全体の量を先に決め、同じ白い表紙と印刷設定を繰り返し使えるようにする。
発売日は、本文を書き終えてから決めることにした。外から締切を置かなければ書く速度は落ちるかもしれないが、未完成の文章と表紙や告知を同時に抱えるよりはよい。
販売はイベントを中心へ寄せる一方、オンラインはやめない。遠くの人にも読んでもらいたいという久保の希望は残し、既刊との二冊セットを六百円にして、封筒と送料を一回にまとめる。
水野は一覧の横へ、別の欄を作った。
毎日発送しない。
ページ数を固定する。
印刷・製本方法をそろえる。
本文完成後に発売する。
イベント販売を中心にする。
既刊をまとめて売る。
改善案として並んだ項目の多くは、久保自身が選んだものだった。水野がしたのは、散らばっていた作業を同じ紙へ載せ、どれを手放せるか尋ねたことだけだった。
「これなら、三百円のままでも少し違うかもしれません」
「すぐ変えられますか」
「発送日は今日、書き換えます。ページ数は次から。セット販売は、在庫を数えてから」
すべてを簡単に変えられるわけではないが、書く時間を取り戻すために、早く届けることや外からの締切を、少しだけ手放すことはできそうだった。
階段を上がる足音が聞こえ、新しい客が会場へ入ってきた。
「水野さんは、こういう仕事をしてるんですか」
久保が尋ねた。
「いや」
「会社で業務改善とか」
「商品企画と営業支援」
水野は答えた。
「最近、買ったあとのことが気になってるだけです」
「買ったあと?」
水野は『乗り換えの途中』を買った日の話をした。三百円を払ったあとにも文章から何かを受け取り続けたこと。支払いのメーターには余地が残り、体験のメーターは大きく動いたこと。
「それなら、三百円にした意味はありましたね」
「あると思います」
水野は答えた。
久保が三百円を守りたい理由は、客の支払い抵抗だけではない。これまで知らなかった読者が、自分の文章を試しに開いてくれた。オンライン販売をやめたくないのも、同じ場所から出ている。
「でも、買う側に余地が残っても、作る側がなくなったら続かない」
久保は机の上の冊子を見た。新刊の残りは十冊ほどになっている。
「次を書けなかったら、売るものもなくなりますからね」
会場の終了時刻が近づき、周囲の出展者が荷物をまとめ始めた。透明な袋や釣り銭の硬貨が片づけられ、段ボール箱が組み直される。
久保が数えた在庫は、前作が七冊、新作が十一冊だった。
水野は帰る前に言った。
「新しいほう、一冊ください」
「ありがとうございます」
久保は『閉まるドアの前で』を取り、透明な袋へ入れようとした。
「袋は大丈夫です」
久保は袋を机へ戻した。
水野は三百円を払った。
その夜、帰りの電車で新しい冊子を開いた。
前作と同じ紙、同じ印刷、同じ大きさ。手に持った感触も変わらない。
文章は新しかった。
二つ目の話まで読み、水野は冊子を閉じた。久保と並べた作業一覧をノートで開き、その下へ書いた。
顧客の支払いには、まだ余地がある。
提供者の時間は、上限へ張り付いている。
少し迷ってから、もう一行を加えた。
顧客側だけに余地があっても、続かない。
電車がトンネルへ入ると、車輪と壁の間で走行音が急に大きくなった。
音は割れていない。
ただ、そのあいだ、ほかの小さな音は何も聞こえなかった。
← 前章:第8章「客を見る。客に決めさせない」
『今日も買う。そのヘッドルームを。』日本語版目次へ
次章:第10章「価値はどこに残るか」 →
Read this chapter in English
