第8章 客を見る。客に決めさせない
ノートを閉じると、水野は受付の横にいる朝乃家一舟を見つけた。
高座を終えた一舟の周りには、まだ数人の客が残っている。前列に座っていた男性が噺の一場面を口にすると、一舟が短く応じ、周囲にまた小さな笑いが起きた。
「話したいんですか」
佐伯に聞かれ、水野はうなずいた。
「さっきの客席のこと、聞きたい」
「聞いてきたらいいじゃないですか」
「終わったばっかりやのに、変な質問やと思われへんかな」
「録音のメーターを見せなければ、大丈夫だと思います」
最後の客が離れるのを待ち、水野と佐伯は一舟へ声を掛けた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。よう笑うてくれはって」
「一つ、聞いてもいいですか」
「難しいこと以外やったら」
一舟が笑った。
水野が聞きたかったのは、笑いの大きさそのものではなかった。客席の声が残っているあいだは言葉を待ち、静かになれば噺を進める。その速さを、どこまで客へ合わせているのか。
「毎回、客の反応を見ながら噺を変えるんですか」
「変える、いうのは?」
「笑いが少なかったら、別の話を足したり。受けてないと思ったら、噺そのものを替えたり」
「足すことはありますよ。でも、途中で別の噺に替えることは、まずないですね」
「客席は見てますよね」
「そら見ます。見んとできません」
今日の客は、最初から声がよく出ていたという。笑いが長ければ言葉を待ち、反応が小さければ少し早く進める。同じ噺でも、毎回同じ速さにはならない。
「静かな客席なら、分かりやすい説明を足すんですか」
「足すこともあります。届いてへんのちゃうかと思ったら、もう一言、もう一言いうて」
「それで届く?」
「届くこともありますけど、こっちが怖がって足しすぎたら、噺が重たなることもあります」
一舟の返事は、水野が予想していたほど整っていなかった。
客席を見れば正しく調整できる、という話ではない。反応が少なければ一舟の側にも焦りが生まれ、その焦りで噺を鈍らせることがある。
「笑ってないと、聞いてないように見えませんか」
「見えるときはあります。でも、静かに聞く人もおりますからね」
「どうやって区別するんですか」
「前のめりになってるか、よそ見してるか、次を待ってるか。顔だけやなくて、身体も見ます」
「それで分かる?」
「分からんときもありますよ」
一舟は即答した。
「終わってから声を掛けてもろて、届いてたんやと分かる日もある。何もないまま帰る日もあります」
水野はもう一つ尋ねた。
「客が笑いそうな噺を選ぶんですか」
「笑いそうな噺だけ、いうことですか」
「今日の客が好きそうな内容へ替えるとか」
「そら、笑ってほしいですよ。受けへんかったら、普通にへこみますし」
一舟は、笑いを求めていないわけではなかった。反応がなくても平気な人物でもない。
「受けへんかったら、分かりやすい笑いへ逃げたくもなります。余計なことを言いたくなることもある」
「それでも、途中で別の噺には替えない?」
「替えません」
返事はそこだけ早かった。
「この噺をすると決めて上がってますから。その日の客に届くように、間や言い方は変えます。説明を足すこともある。でも、途中で別の噺へ逃げたら、さっきまで出てきた人らを置いていくことになるでしょう」
「噺の登場人物を?」
「そうです。その人らがどこへ行くのか、最後まで見てもらいたくて噺をしてますから」
一舟にとって、替えずに守るものは「提供工程」ではなかった。高座へ出した人物を、途中で捨てたくない。そのために客席を見て、客席へ届く形を探している。
「客に合わせることと、客に決めてもらうことは違う?」
水野が尋ねると、一舟は少し考えてから答えた。
「そんな立派な言い方かどうかは分かりませんけど。お客さんは見に来てくれてる。私も、見てもらいたい噺がある。その間をどうつなぐかは、こっちで考えます」
「高座で客が静かだと、不安になりませんか」
「なりますよ。毎回、不安です」
「正しい噺を選べたかも分からない?」
「終わるまで分かりません。それでも、こっちで決めて上がるしかないです。自分が不安やからいうて、お客さんに『次、何しましょう』とは聞けませんからね」
受付の奥から、一舟を呼ぶ声がした。
「すみません。片づけがありますので」
水野と佐伯が礼を言うと、一舟は客席へ戻っていった。
建物を出て駅へ向かう途中、佐伯が言った。
「今の話、仕事でも同じかもしれません」
「顧客の反応を見ることと、顧客に提供方法を全部決めてもらうこと?」
「はい」
会社では、顧客の声を聞けと言われる。できるだけ要望へ応えろとも言われる。水野は、その二つを顧客志向とまとめて考えていた。
「要望を断ったら、顧客志向じゃないと言われるけどな」
「何を断るかによります。顧客が困っていることを見るのは必要です。でも、解決方法まで顧客が一番よく知っているとは限りません」
水野には、吉岡の店が浮かんだ。
吉岡は客の疲れを見て、水を足し、急かさずに座らせていた。一方で、求める客がいてもメニューは増やさない。注文を全部取り込めば、一人で店を回せなくなり、渡したかった短い休憩まで壊れてしまう。
「吉岡さんも、客は見てた。でも、注文を全部聞くわけじゃなかった」
「店を回す側が決める部分を残していたんでしょうね」
「一舟さんも、間や言い方は変える。でも、噺は途中で捨てない」
佐伯は少し考えてから言った。
「提供者が管理できる変数を残している、と言えそうです」
「変数?」
「提供時間、商品数、工程、品質、価格。提供する側が決められるものです。そこを顧客ごとに全部変えれば、同じ品質を繰り返せなくなる」
一舟が話していた噺の人物は、佐伯の言葉の中で工程や品質へ変わっていた。間違ってはいない。しかし、少し違うものになっている。
「客を見る。でも、客に決めさせない」
水野は、一舟の話を短くして言った。
「顧客志向と、顧客による提供工程の支配は違う」
「支配は強くない?」
「では、統制」
「もっと強い」
「主導」
その言葉なら、少し近かった。
客席を見て、笑いの長さを聞き、その日の客へ届くように調整する。ただ、どの噺をし、人物をどこまで連れていくかは一舟が決めている。
「提供者主導?」
「それだけだと、顧客を無視する感じがあります」
「顧客の状態は見る。でも、提供の主要な変数は提供者が持つ」
「提供者変数主導状態、でしょうか」
「長いな」
「まだ仮称です」
翌朝、佐伯は一枚の紙を水野の机へ置いた。
上部には、
顧客の状態、反応、困り事を観察する。
提供内容、工程、品質管理の主導権は提供者が保持する。
とあり、その下に、
仮称:提供者変数主導状態
と書かれていた。
紙の下半分は、「観察するもの」と「提供者が決めるもの」の二欄に分かれている。
観察するものは、客席の集中、笑いの長さ、客の疲れ、待ち時間への反応。
提供者が決めるものは、演目、噺の中心、メニュー数、提供順、工程。
「一舟さんの話と、吉岡さんの店を並べました」
佐伯は言った。
「瀬川さんの店にも使えるかもしれません。客へ全部合わせて豆を変える必要はない。でも、誰が来ているかは見ないといけない」
「客を見ることと、客の言うとおりにすることは違う」
「はい」
「でも、客を見ない提供者主導も違う」
「それは、ただの独善です」
水野はノートを開いた。
前日のページには、「ヘッドルーム」と書かれている。その次の行へ、
客を見る。客に決めさせない。
と記し、さらに佐伯の仮称を続けた。
提供者変数主導状態。
文字だけを見れば、一舟の高座からは遠い。一舟が受けなければへこむことも、噺の人物を途中へ置いていきたくないことも、佐伯の二つの欄には入っていなかった。
客を大切にすることと、客へ判断を渡し切ることが同じではない、という形は残っている。
水野は「主導」という二文字に丸を付けた。
客を大切にするために、客へ渡してはいけないものもある。
正しいようで、使い方を誤れば独善にもなる。
一舟が口にした「毎回、不安です」という言葉は、丸の外に残っていた。
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