第三部 ヘッドルーム
第7章 笑い声のピーク
寄席へ行こうと言い出したのは、佐伯だった。
昼休み、水野が給湯室から戻ると、机の上に地域寄席のチラシが置かれていた。赤い文字で開催日が印刷され、その下には出演者の名前が縦に並んでいる。
「これ、佐伯さん?」
「取引先でもらいました」
佐伯はモニターから目を離さずに答えた。
「落語、好きなん?」
「詳しくはないです。でも、その日は空いてます」
「俺も行くことになってる?」
「水野さん、音を聞くの好きでしょう。笑い声を録音したら面白いんじゃないですか」
水野はチラシの下部を読んだ。
会場内での撮影、録音は禁止。
「録音禁止やけど」
「本当ですね」
「俺が行く理由、なくなったな」
「普通に聞けばいいじゃないですか」
佐伯はそれだけ言って仕事へ戻った。
水野はチラシを机の端へ置いた。帰るときにも捨てず、開催日まで鞄のポケットへ入れたままにしていた。
会場は、商店街から一本外れた通りにある二階建ての古い建物だった。入口の横には寄席文字で出演者の名前が書かれ、開演の三十分前にもかかわらず、十人ほどが列を作っている。
「思ったより人がいますね」
佐伯が言った。
「常連が多いんかな」
「水野さん、レコーダーは?」
「持ってるけど、鞄から出さんよ」
今日は上着の内側ではなく、鞄の底へ入れていた。持ってくる必要はなかったが、家を出るときには、いつもの習慣でほかの荷物と一緒に入れてしまった。
開場時刻になると木の扉が開き、二人は受付で入場料を払った。
百席に満たない客席の前方には、低い高座と座布団、小さな見台がある。舞台装置はそれだけで、二人は中央より少し後ろの席へ座った。
客席には高齢の夫婦、仕事帰りらしい男女、一人で来た若い客が混じり、前列では顔見知りらしい人たちが挨拶を交わしている。飴の包装が擦れ、受付では硬貨が箱へ落ちた。客が増えるにつれて、話し声や咳払い、上着を脱ぐ音、プログラムを開く音が重なり、始まる前から一つの音場を作っていく。
水野は鞄へ手を伸ばしかけたが、そのまま膝へ戻した。
記録しなければ、聞き逃した音は残らない。その不自由さのためか、いつもより小さな音まで近くにあった。
開演時刻になり、客電が少し暗くなった。話し声が引き、笛と太鼓の出囃子が流れ始める。音響設備は新しくないらしく、音は少し硬く、広がりも狭かったが、それだけで客席の向きが高座へそろった。
前座の落語家が一礼し、座布団へ座った。
最初の言葉に、前列から小さな笑いが起きた。一人が短く息を漏らし、少し遅れて周囲にも笑いが広がる。声を出さず、肩だけを動かしている人もいた。
噺家が言葉を止めれば、客席も次を待った。話している最中より、何も言わない時間のほうが、百人に満たない客の注意を一つへ集めることがある。次の一言が置かれた途端、笑い声が立ち上がり、短く消えた。
水野の頭には、レコーダーの画面が浮かんでいた。
小さな音が続き、間が生まれ、そのあとで音量が跳ねる。笑いにも、始まりと長さと消え方がある。
前座が下がると拍手が広がった。音は大きかったが長くは続かず、次の出囃子が始まるころには、客席は再び静かになっていた。
二人目の落語家は、前座よりゆっくりと話した。声量は後ろまで届く程度で、それほど大きくない。しかし、顔の向きを変えるたびに声の位置まで変わり、右側には一人、左側には別の人物がいるように聞こえた。
道具も背景もないのに、水野の中には部屋や通りが現れ、二人の人物が向かい合っている。
隣で佐伯が笑った。普段の事務所では聞かない、少し高くて短い声だった。
水野は横を見ず、その笑いが前方から広がってきた笑いへ混じるのを聞いた。音は中央を通り、遅れて後方まで膨らむと、次の言葉が出る前に消えていった。
休憩を挟み、最後に朝乃家一舟が高座へ上がった。
名前はチラシの一番下に大きく書かれていた。一舟が座布団の前で一礼すると、前の二人より長い拍手が起きる。
一舟は座り、客席を見た。すぐには話し始めず、最前列の客が座り直し、誰かが咳を飲み込むまで待ってから口を開いた。
会場へ来る途中で見た工事現場の話だった。
誘導棒を持つ警備員へ、高齢の女性が道を尋ねる。一舟が警備員の返事をまねると、客席の数人が笑った。女性の聞き返しでは笑いが少し広がり、同じやり取りがわずかに形を変えた三度目に、ようやく客席全体が大きく動いた。
最初の小さな反応を、言葉で押し広げようとはしなかった。やり取りの形を崩さず、客が警備員と女性を見つけるまで、同じ道を少しずつ進んでいた。
笑い声が大きくなると、一舟は次の言葉を重ねずに待った。完全に消えるより少し前、余韻がまだ客席へ残っているところへ、新しい一言を置く。別の笑いが起き、先ほどの音を追うように広がっていった。
声を張り上げているわけでも、説明を増やしているわけでもない。言葉が客席へ届く場所を測りながら、一つずつ置いている。
噺が本題へ入ると、高座の景色が狭い長屋へ変わった。
実際にあるのは一舟と座布団だけだったが、顔の角度や声の調子が変わるたび、大家、店子、近所の男、気の強い女房が増えていく。一舟の身体は一つしかないのに、客席には何人もの人間がいた。
大きな笑いのあと、噺は急に静かな場所へ入った。
一舟は登場人物の一人として、小さな声で短い言葉を置いた。先ほどまで笑っていた客席が動かなくなり、どこかで誰かが息を吸った。
笑いの続きとして聞いていた人物が、ほんの一瞬だけ寂しい人間に見える。
一舟は、その静けさを笑いで急いで埋めなかった。次の言葉へ進むと、人物はまた滑稽さを取り戻し、客席も笑った。ただし、少し前までとは違う笑いだった。おかしさだけでなく、先ほど見えた寂しさも残っている。
水野は何度も、頭の中でメーターを見た。
一舟の声が上限へ張り付いているわけではなく、場内が常に爆笑しているわけでもない。小さな笑いのあとに静けさがあり、その中から驚きや別の感情が現れ、再び大きな笑いへ戻っていく。
感情が動ける幅が、客席の中に残されていた。
噺の終わりが近づくと、言葉の速度が少し上がった。それまで別々の場所にいた登場人物が一か所へ集まり、離れて置かれていた話が短い時間で重なっていく。
一舟が最後の一言を放った。
客席の笑い声が、一気に立ち上がった。
前方も後方もなく、一つの大きな音になって天井へぶつかる。水野の頭の中では、メーターが赤い線の近くまで跳ねていた。
笑いはすぐには収まらなかった。
一舟は何も足さず、座ったまま待っている。やがて笑いが拍手へ変わり、一舟が頭を下げると、その拍手はさらに大きくなった。
水野も手を叩いた。胸のあたりには、来たときになかった軽さがある。
悩みが解決したわけではなく、仕事も減っていない。ただ、笑っている間だけ忘れたというのとも違い、客席を離れたあとまで持って帰れそうな何かが残っていた。
終演後、客は急がずに席を立った。前列の常連らしい人たちは、その場で噺の感想を話している。
佐伯はプログラムを鞄へ入れた。
「面白かったですね」
「うん」
「水野さん、途中から笑いながら難しい顔してましたよ」
「どっちやねん」
「何か測ってるみたいでした」
二人は客の流れに続いて廊下へ出た。
水野は少し離れた場所で、入場券の半券を確かめた。
料金を払ったのは、会場へ入る前だった。金額を見ても、買うかどうかは迷わなかった。高いとも思わず、安さを理由に選んだわけでもない。
このくらいなら、一度見てみよう。
その程度の判断だった。
しかし今は、笑いだけでなく、長い静けさや、知らない登場人物への共感、帰り道まで残りそうな言葉まで持ち帰ろうとしている。
「三百円のZINEと、似てますか」
佐伯が尋ねた。
「似てるところはある」
「消費者余剰?」
「それもあると思う」
二人は客の流れに続いて一階のロビーへ下りた。ガラス戸の向こうでは飲食店の看板が点灯し、自転車が一台、入口の前を通り過ぎていった。
水野は鞄からレコーダーを取り出した。
「録音してないですよね」
「してない」
電源だけを入れると、暗い画面に二本のレベルメーターが現れた。外を走る車の音に合わせ、緑色の帯が低い位置で動いている。
「録音するとき、急に大きい音が来ても潰れないように、上に余裕を残すやろ」
「前に商店街で言ってた話ですか」
「そう」
水野はメーターの上部を示した。
「ここに残ってる幅を、ヘッドルームって言う」
「ヘッドルーム」
佐伯が繰り返した。
「頭の上の部屋?」
「直訳したら、そうなるんかな」
水野は電源を切った。画面は暗くなったが、先ほどの笑い声の振れ方はまだ残っている。
「支払ったときの感じが、それに近い」
「入場料に余裕が残っていた?」
「うん。払うときは、上限まで振れてない」
二階では客席の片づけが始まり、椅子を移動させる音が階段のほうからかすかに届いた。
「でも、体験のほうは、最後ほとんどピークまで行ってた」
佐伯はすぐには答えなかった。
入口へ向かう客が数人、二人の横を通り過ぎた。一人が一舟の言葉をまねると、ほかの二人がまた笑った。
高座は終わっているのに、笑いは客の間を動いていた。
水野はロビーの壁際でノートを開いた。
支払いのメーターには、まだヘッドルームがある。
なのに、体験のメーターはあれほど振れた。
その下へ、一語だけ書いた。
ヘッドルーム
名前を付けただけで、何に使える言葉なのかはまだ分からない。
三百円の冊子を読み終えた夜から形にならずにいたものが、ようやく一つの言葉へ収まっていた。
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