第5章 消費者余剰
翌朝、水野が出社すると、佐伯奈緒はすでに二台のモニターを使っていた。
左側には先月の商品別売上、右側には問い合わせ内容の一覧が開かれ、佐伯は数字と文章の対応を確かめながら入力を続けている。水野はパソコンの起動を待つあいだに鞄を開き、厚い写真集の間で少し曲がっていた『乗り換えの途中』を取り出した。
朝の事務所で見る白い表紙は、昨日の会場にあったときより簡素だった。
「それ、何ですか」
佐伯は入力を続けながら聞いた。
「昨日買った冊子」
「本ですか」
「ZINE」
「水野さん、ZINEを買う人なんですね」
「どういう意味」
「休日は録音だけしてるのかと思ってました」
「録音しかしてない人みたいに言わんといて」
佐伯は笑い、水野も冊子を机へ置いて仕事を始めた。社内チャットには未読の通知が十件以上あり、取引先へ送る仕様書の修正、営業担当からの商品画像の依頼、会議時間の変更が並んでいる。
二件へ返信し、三件目を開いたところで、佐伯が尋ねた。
「面白かったんですか」
「面白かった」
「どういう内容ですか」
「駅とか、電車で見かける人の話」
「それだけ?」
「それだけ」
「文章がうまいんですか」
うまいという言い方でも間違いではない。ただ、それだけなら、読み終えたあとにも男の不在や予定のない駅が残っている理由にはならなかった。
「見たことがあるのに、見てなかったものを書いてる感じ」
「分かるような、分からないような」
水野は冊子を手に取った。
「三百円だった」
「安いですね。だから買ったんですか」
昨日、知人にも同じことを言われた。
「三百円じゃなかったら、買わなかったかもしれない」
「じゃあ、値段ですね」
「値段なんやけど」
佐伯の整理は早かった。購入した理由だけなら、それで合っている。しかし、水野が話したかったのは、買う前のためらいだけではなかった。
事務所の奥で複合機が動き始め、ローラーが紙を送る音に続いて、一枚目と二枚目が間を置いて排出された。その一定の動作の向こうに、一駅乗り過ごし、反対側のホームでもう一度最初の話を開いた時間が戻ってくる。
「三百円を払ったあとにも、まだ何か残ってる感じがした」
「冊子が残るのは当然では」
「物の話じゃなくて」
「読後感ですか」
「それも近い」
「価格以上に面白かった?」
「そう言えばそうなんやけど、三百円分を受け取って終わりじゃないというか」
目の前で起きたことなら、もっと簡単に話せる。金属の看板が落ちた。コーヒーが冷めると香りが変わった。四百五十円で十五分座った。
ところが、支払いを終えたあとに残ったものには、形も単位もなかった。
佐伯は少し考えたあと、右側のモニターへ新しい画面を開いた。
「言葉があるとすれば、消費者余剰に近いと思います」
「消費者余剰」
聞いたことはあった。会社の研修資料か、大学時代の授業で見たのかもしれないが、自分の買い物と結び付けたことはない。
「買う人が払ってもいいと思っていた金額と、実際に払った価格の差です」
「たとえば?」
「水野さんが、その冊子なら五百円まで払ってもよかったのに、三百円で買えたとします」
佐伯は付箋に五百円と三百円を書き、二つの数字を線で結んだ。
「この二百円分が、消費者側に残った余剰です」
数字になると、分かったような気がした。仕事で二つの商品を比較するなら、線の長さがあるほうが扱いやすい。
ただ、水野が実際に払ってもよいと思っていた金額は、どこにあるのだろう。
「払ってもいいと思う金額は、いつ決まるんですか」
「買う前でしょうね」
「でも、俺は読む前に内容を知らなかった」
佐伯はすぐには答えなかった。
「確かに」
「買う前に五百円の価値があると思ってたわけじゃない。三百円なら、合わなくてもいいと思って買った」
「読んだあとには、もっと払ってもよかったと思った?」
「それは思った」
「なら、結果的には余剰があったとは言えます」
「たぶん」
佐伯は二百円の差額を示した付箋を、水野の机へ置いた。
考え方は理解できる。支払ってもよい金額より安く買えたのなら、得をしたことになるし、昨日の冊子にも当てはまる。
線の中へ入らないものがあった。
「五百円まで出せたとして」
「はい」
「五百円で買ってたら、昨日と同じように感じたかな」
「余剰はゼロに近づきますね」
「でも、読んだあとの文章は同じやろ」
「同じです」
「受け取ったものは同じなのに、支払ったときの感じは違う」
佐伯は付箋の横へ、もう一つ丸を描いた。
「価格と体験を、別に考えたいんですか」
「別というか、メーターが二つある感じがする」
水野の机の端には、先週の録音から鞄へ戻していなかったレコーダーが置かれていた。手に取っても電源は入れず、黒い画面の端を示す。
「一つは、支払うときのメーター。三百円なら、そんなに上まで振れへん。買って合わなくても、まあいいと思える」
「心理的な負担ですね」
「もう一つは、読んだあとのメーター」
「満足度?」
「発見とか、余韻とか。読み返したくなる感じとか。こっちは、三百円から想像したより大きく振れた」
事務所の電話が鳴り、営業担当が会社名を名乗った。複合機の動作音へ人の声が重なる中で、佐伯は別の付箋へ二本の縦線を書いた。
左に「支払い」、右に「体験」。
支払いの線には低い位置へ、体験の線にはそれより高い位置へ印を付ける。
「こうですか」
「近い」
「消費者余剰として比較するなら、体験のほうも最終的には金額へ置き換えるんでしょうね。いくらまでなら払えたか、という形で」
「それが普通なんかな」
「数字にしたほうが、商品や人をまたいで比較できますから」
佐伯にとって、数字は感覚を否定するものではない。別々の人が話しているものを、同じ机へ載せるための道具だった。
その一方で、右側に書いた「体験」は、まだ金額になっていない。
「でも、水野さんが気になっているのは、差額そのものではないのかもしれません」
「何やと思う?」
「まだ分かりません」
答えを知っているような言い方ではなかった。
「その冊子、貸してもらえますか」
「今?」
「昼に読み始めます。今日は在宅じゃないので、続きは帰りの電車でも読めます」
水野は冊子を渡した。佐伯は最初のページだけ開いたあと、すぐに閉じた。
「仕事中なので」
「真面目やな」
「水野さんが話しかけてきたんです」
薄い冊子は、佐伯のパソコンの横にある販売実績の書類へ重ねられた。
水野はノートの新しいページへ日付を書き、佐伯から聞いた言葉を記した。
消費者余剰
少し空けて、
払ってもいい金額と、実際の価格との差
と続け、その下へ「支払い」と「体験」の二本の線を引いた。支払いには低い印を、体験には高い印を付ける。
説明は前より進んだが、何かが足りなかった。
昼休みになると、佐伯は冊子を持って休憩スペースへ向かった。水野は自席に残り、午前中に届いていた修正依頼を開いた。
画面には商品パッケージの案が表示された。現在の商品より厚い紙、金色の文字、追加された説明文。右上には「プレミアム」とある。
営業担当からのメッセージには、
価格を上げるため、付加価値が伝わる見た目にしたい
と書かれていた。
高級には見える。実際に印刷費も包装費も上がるだろう。買う人が望んでいるかまで考えかけたが、いま処理する仕事は別にあり、水野は画面を閉じた。
午後一時前、佐伯が戻ってきて冊子を水野の机へ置いた。
「どうやった?」
「一駅、乗り過ごすほどではなかったです」
「そう」
「でも、面白かったです。三百円なら、次も見かけたら買うと思います」
「五百円なら?」
「たぶん買います」
「千円なら?」
佐伯の返事は、そこだけ少し遅れた。
「昨日の時点では買わないです」
「読んだ今なら?」
「次の内容によります」
同じ文章を読んでも、水野と佐伯では振れ方が違った。佐伯は駅を乗り過ごさず、すべての話を同じ強さでは受け取っていない。それでも、久保の文章を知らなかった昨日より、次の冊子へ払える可能性は上がっている。
「やっぱり、金額だけでは決まりませんね」
佐伯は自分の席へ戻りながら続けた。
「誰が書いたか知っているか。前に読んだことがあるか。どのくらいの長さか。いま読みたい内容か。同じ人でも、条件によって払える金額は変わります」
昨日まで、久保は知らない書き手だった。今日は文章を七本読んでおり、次に名前を見つけたときには、昨日より内容を予測できる。
同じ三百円でも、二度目の支払いは一度目と同じではない。
「それも余剰に入るんかな」
「信用ですか」
「次も買っていいと思える感じ」
「広く考えれば価値には入るでしょうけど、消費者余剰だけで分けると、別の変数になりそうです」
朝より慎重な答えだった。
水野はノートへ戻り、二本の線の下に書いた。
支払いには余地が残る。
体験は、価格から予想したところを超える。
さらに続けた。
消費者余剰に近い。
ただし、それだけではない。
水野はペンを置いた。
まだ名前はなかった。
名前がないままでも、昨日から残っているものは消えなかった。
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