第二部 支払いのあとに残るもの
第4章 知らない人の思い入れ
会場は、川沿いにある古い倉庫だった。
入口の上には白い布の看板が掛かり、イベント名の下に出展者数と開催時間が印刷されている。水野は紙の案内図を受け取り、知人と一緒に中へ入った。
倉庫には長い机が何列も並び、小さな冊子、写真集、詩集、漫画、旅行記が机ごとの狭い世界を作っていた。新しいインクと紙、古い木材の匂いが混じり、通路には出展者の説明と来場者の話し声が絶えず流れている。
「思ってたより、ちゃんとしてるやろ」
水野を誘った知人が言った。
「もっとコピー用紙ばかりかと思ってた」
「それもあるけど、最近は印刷所に頼む人も多いらしいで」
入口の近くには、厚い表紙の写真集が並んでいた。表紙には夜の団地が印刷され、価格は二千円とある。
水野が一冊を手に取ると、ざらついた紙の黒い部分だけが、光の角度によって鈍く反射した。ページには建物の廊下、誰もいない公園、窓に残った生活の明かりが写り、写真の周囲には広い余白が取られている。最後のページにあるのは、撮影場所と年月だけだった。
「きれいやな」
知人が横からのぞき込んだ。
「うん」
写真を見るためだけではなく、本棚へ残す物として作られている。水野はもう一度表紙の感触を確かめた。二千円という値段にも違和感はなく、少し迷ったあと、その写真集を買った。
制作者は透明な袋へ入れ、表紙が折れないよう厚紙を添えた。紙袋を受け取ると、一冊分の重さが手に残った。
その先にも、二色刷りの漫画や、手作業で糸を通した詩集が並んでいた。布張りの表紙、角を丸く切った冊子、半透明の紙を途中へ挟んだ作品。価格は千円から二千円ほどだったが、紙や印刷、製本へ手間が掛かっていることは、触れば分かる。
高いとは思わなかった。
作った人が、その形で渡したいと思ったのだろう。
ただ、水野はすべてを買うことはできない。机の前で数ページを読み、作者の説明を聞き、それから値段を見る。内容に少し興味を持っても、まだ文章を知らない書き手の冊子には、すぐ手が伸びなかった。
表紙が美しいほど、物を大切に所有するところまで求められているように感じることがある。一度読んで、自分に合わなかったらどうするのか。本棚に残すのか、誰かへ渡すのか、それとも処分するのか。
千五百円という金額だけの問題ではなかった。
知らない人が長く抱えてきた思い入れを、自分がどこまで受け取れるのか分からない。
会場の中央では、旅行記の制作者が来場者へ説明していた。
「この土地には三年間通ったんです。観光地ではなくて、現地の人が日常的に使う道だけを歩いています」
文章は細かく、写真も多い。三年間の移動や観察、紙を選び、印刷を確認した時間まで、一冊の形になって机の上へ置かれている。
水野は数ページ読んだが、冊子を戻した。内容が悪いわけではなく、制作者の三年間を自分が今ここで引き受ける理由を、まだ持っていなかった。
会場の端まで来ると机の間隔が少し広くなり、壁際の小さな机に薄い冊子が積まれていた。
白いコピー用紙を二つ折りにし、中央をホチキスで留めている。表紙にも本文にも同じ紙が使われ、黒い線で駅の階段が描かれていた。
題名は『乗り換えの途中』。
価格は三百円だった。
水野は一冊を手に取った。ページ数は二十ページほどで、紙は薄く、印刷にも特別な加工はない。
机の向こうには、眼鏡を掛けた若い男性が座っていた。水野が冊子を開いても、すぐには説明を始めなかった。
最初のページには、通勤途中に見かける人についての短い文章があった。
毎朝同じ場所に立つ人。
決まった階段を使う人。
電車が来る前に、必ず時計を見る人。
数行だけでも、水野には見覚えがあった。自分も毎日見ているはずなのに、記憶へ残していなかった風景だった。
「短いので」
男性が言った。
水野は顔を上げた。
「帰りの電車くらいで読めます。途中から読んでも、たぶん大丈夫です」
「短い話が何本か入ってるんですか」
「七本です。全部、駅とか電車の話です」
各話は二ページか三ページで終わり、挿絵も少ない。余白を大きく取った美しい本というより、文章を読むための最低限の形をしていた。
「三百円なんですね」
「はい」
「安くないですか」
特殊な紙や凝った印刷を使っていなくても、印刷代は掛かり、会場まで運ぶ手間もある。
男性は、安いと言われることを待っていたようには見えなかった。
「知らない人の文章に、最初から千円は出しにくいと思うんです」
「読んだことのある人なら別?」
「別ですけど、まだ誰も僕の文章を知らないので」
男性は言い直すように続けた。
「僕だったら、たぶん出しません。まず読んでもらわないと、次も何もないですから」
自分の文章には千円の価値がない、と言っているわけではなかった。知らない書き手へ千円を払うときのためらいを、書き手である自分にも向けている。
「紙や製本にこだわることは、考えなかったんですか」
「考えました」
男性は机の下から、別の冊子を一冊出した。
厚い灰色の表紙に、銀色で題名が印刷され、背は糸で綴じられている。受け取ると、先ほどのコピー冊子とは違う重さがあった。
「きれいですね」
「きれいなんですけど、これだと一冊千五百円くらいになります」
中には、現在の冊子と同じ文章が印刷されていた。
「千五百円で売るなら、文章だけじゃなくて、物として欲しいと思ってもらわないと難しいんです」
男性は灰色の冊子を否定しなかった。
「こっちのほうが、作品らしくは見えるんですけど」
そのあとで、薄い三百円の冊子を持った。
「今は、文章を読んでもらうほうが先かなと思いました」
銀色の題名が付いた冊子を作りたい気持ちも、なくなったわけではないらしい。けれど物としての完成度が先に立てば、まだ知られていない文章まで試してもらいにくくなる。
水野は二冊を見比べた。
所有するなら、灰色の冊子のほうがよい。だが、今すぐ読みたいと思ったのは三百円のほうだった。薄ければ鞄へそのまま入れられ、帰りの電車で開ける。自分に合わなくても、書き手の作品全体を強く否定したことにはならない気がした。
「一冊ください」
「ありがとうございます」
男性は冊子を透明な袋へ入れかけてから尋ねた。
「袋、要りますか」
「このままで大丈夫です」
「分かりました」
水野が三百円を置くと、男性は釣り銭の缶へ手を伸ばしかけ、ちょうどの金額だと分かった。三枚の硬貨が机の上の箱へ入り、それぞれ違う高さの音を立てた。
「久保といいます」
男性は言った。
「奥に連絡先だけ書いてあります。感想じゃなくても、誤字とかあったら教えてください」
「分かりました」
水野は薄い冊子を、先ほど買った写真集の横へ入れた。厚い表紙と厚紙のあいだに挟まれると、『乗り換えの途中』はほとんど見えなくなった。
知人と合流して会場を出るころには、外は夕方になっていた。川の上を風が通り、倉庫の扉が開くたび、会場の話し声が短く外へ漏れている。
「何買ったん?」
水野は紙袋を少し持ち上げた。
「写真集と、薄い文章の冊子」
「ええのあった?」
「写真集は、物としてきれいやった。文章のほうは、まだ分からん」
「いくら?」
「三百円」
知人はすぐに笑った。
「結局、値段か」
否定しようとしたが、うまい言葉は見つからなかった。
値段は理由の一つだった。三百円でなければ、文章をまだ知らない久保の冊子を買わなかった可能性は高い。
ただ、安いから価値が低いとは思わなかった。三百円だったから、価値が低くてもよいと思ったのでもない。
まだ知らないものへ、少しだけ近づける金額だった。
二人は駅で別れ、水野は夕方の混んだ電車へ乗った。座席は埋まっていたため、ドアの横に立ち、鞄から『乗り換えの途中』を取り出した。
電車が動き始めると、床から車輪の振動が伝わってくる。
最初の話は、毎朝、同じ駅の同じ場所で靴ひもを結び直す男について書かれていた。語り手は名前も知らず、話しかけたこともない。ある朝、その男が来なくなる。それだけの話だった。
次の話では、乗り換えに失敗した女性が、予定のない駅で一度降りた。駅前には何もなく、女性は自動販売機で温かい飲み物を買い、次の電車までベンチに座る。その短い時間だけ、誰にも行き先を知られていなかった。
特別な事件は起きない。
水野は途中で読むのをやめなかった。
駅へ着くたびにドアが開き、人が降り、人が乗った。水野は乗客を通すために冊子を閉じたが、再び開けば、読んでいた場所はすぐに分かった。薄い紙は少し反り、文字の濃さも完全には均一ではない。それでも読むことを邪魔するものはなかった。
最後の話を読み終えたとき、水野は降りる駅を一つ過ぎていた。
扉の上の表示を見て、ようやく気づいた。慌てるほどではなく、次の駅で反対方向へ乗り換えればよい。
水野は冊子を閉じた。
読み終えたはずなのに、最初の話に出てきた男のことが残っていた。毎朝同じ場所にいた人が、ある日からいなくなる。名前を知らなくても、その不在だけは分かる。
次の駅で電車を降り、反対側のホームへ移った。戻る電車が来るまで少し時間があり、水野はもう一度、最初のページを開いた。
三百円の支払いは、会場で終わっていた。
冊子も、二十ページを最後まで読み終えている。
受け取り終えてはいなかった。
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