3章 「四百五十円の休憩」
第3章 四百五十円の休憩
その喫茶店を見つけたのは、千円のコーヒーを飲んだ日から一週間ほど後だった。
その日は朝から得意先との打ち合わせが続き、最後の訪問を終えたころには午後三時を少し過ぎていた。駅へ戻る途中、水野は信号の前で立ち止まった。
肩に掛けた鞄には、会社のノートパソコンと商品資料しか入っていないのに、朝より重さが増したように感じる。
信号が青に変わり、周囲の人が歩き始めた。水野も横断歩道を渡ったが、向こう側へ着くと駅とは反対の方向へ曲がった。
急いで会社へ戻る理由はなかった。メールや社内チャットには、いくつか通知が付いているだろうが、今すぐ返さなければならないものではない。
細い通りへ入るにつれて車の音が遠ざかり、古い建物が並び始めた。一階には小さな店が入り、二階の窓には洗濯物が干されている。営業しているのか分からない店舗もある。
その中に、茶色いひさしの喫茶店があった。
看板にあるのは店名と「珈琲」の二文字だけで、店頭のメニューにはブレンドコーヒー四百五十円と書かれていた。ほかには紅茶、ミルク、トースト、卵の付いたモーニングセットが並んでいる。
水野がガラス戸を引くと、上に付いたベルが二度続けて鳴った。
店内は外から見たよりも奥行きがあり、右側にはカウンターが六席、左側には二人掛けのテーブルが四つ並んでいた。壁際の棚には新聞と雑誌が置かれ、一番奥の換気扇が低い音を出している。
「いらっしゃい」
カウンターの中から、六十代半ばくらいの男性が言った。白いシャツの上に濃い茶色のエプロンを着け、細いフレームの眼鏡を掛けている。
水野は空いているテーブルへ座った。
店内には、すでに四人の客がいた。カウンターの端では高齢の男性が新聞を読み、窓際では作業着姿の二人が向かい合っている。二人の会話は少なく、片方がときどき腕時計を見ていた。奥の席では、女性が小さな手帳に何かを書いている。
店主は水のグラスと短いメニューを水野の前へ置いた。
「注文、決まったら呼んで」
メニューの内容は、店頭に書かれていたものとほとんど変わらなかった。ホットコーヒーはブレンド一種類だけで、アイスコーヒーは別にある。豆の産地も焙煎度も書かれていない。
「ブレンドをお願いします」
「はいよ」
店主は伝票へ短く書いて、カウンターへ戻った。
窓際の作業着姿の一人が、椅子の背にもたれたまま言った。
「そろそろ行かなあかんな」
向かいの男性は返事をせず、言った本人もすぐには立たなかった。二人のカップには、まだコーヒーが少し残っている。
店主はその席を見たものの、声を掛けなかった。
水野は鞄を隣の椅子へ置いた。肩から重さが離れても、身体にはまだその感覚が残っている。
上着のポケットには小型のレコーダーが入っていたが、取り出すつもりはなかった。耳は、店内にある音を自然に拾っていた。
新聞のページがめくられ、鉛筆が手帳の紙を擦っている。スプーンが受け皿の縁へ触れ、厨房の奥では水道が短く流れた。どの音も大きくなく、重なっても一つだけが前へ出てこない。
店主が豆をすくい、ミルを回した。
瀬川の店で聞いたものより低く太い回転音で、動いている時間も少し違う。
水野の中に、一週間前の一杯が戻ってきた。白い花に似た香り、温度が下がるにつれて変わった酸味、農園名と標高が書かれた小さなカード。あの一杯には、飲む前から多くの情報が添えられていた。
目の前の店には、そうしたものがほとんどない。
店主は挽いた豆をフィルターへ入れ、最初の湯だけ少し待つと、その後は一定の速さで注いでいった。説明はなく、やがて白いカップが水野の前へ置かれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
表面は黒く光り、香りには深く煎った豆の苦さがあった。
一口飲むと、まず熱さと苦味があり、その後からわずかな甘さが出てきた。瀬川の一杯のように香りが何段階にも変化するわけではなく、初めて知る味でもない。
おいしいかと聞かれれば、おいしい。
ただし、それを説明するための言葉を探す必要はなかった。
カウンターの高齢男性が、新聞を広げたまま店主へ尋ねた。
「今日は競馬、載ってへんのか」
「載ってるやろ。後ろのほう」
「見つからん」
「昨日の新聞見てるんちゃうか」
男性が日付を確かめた。
「ほんまや」
店主は笑わず、棚から新しい新聞を出して男性の横へ置いた。
「そっち今日のやつ」
男性は古い新聞を畳み、新しい紙面を開いた。会話はそれだけで終わり、店主も余計なことは言わなかった。
窓際の二人が、ほぼ同時に立ち上がった。一人が伝票を持ってレジへ行き、もう一人は自分が使った椅子をテーブルの下へ戻した。
「二人で九百円」
店主が言うと、男性は千円札を出した。十円玉の混じった釣り銭が、受け皿の上で短く鳴る。
二人が店を出ると、ベルが二度鳴った。
店主は空いた席をすぐには片づけず、先に水野のそばを通って、空になっていたグラスを見た。
「水、足そか」
「お願いします」
水を取りに戻ったところで、新しい客が入ってきた。買い物袋を提げた女性だった。
女性は窓際の空いた席へ座った。
「いつもの」
「今日はトーストいらんの」
「食べてきた」
「ほな、コーヒーだけな」
メニューも価格の確認も必要なかった。女性は買い物袋を隣の椅子へ置くと、深く息を吐いた。
店主は水野へ水を運んだあとで、作業着姿の二人が使ったカップを下げ、テーブルを拭いて椅子を戻した。それから女性のコーヒーへ取り掛かる。
急いでいるようには見えないが、止まっている時間もなかった。目の前の一つを終え、次へ移っているだけで、誰かを早く追い出して順番を作る必要はないらしい。
水野は少し冷めたコーヒーを飲んだ。苦味が丸くなり、先ほどより飲みやすくなっている。
窓には、通りを歩く人の姿が映っていた。駅へ向かう人、買い物袋を持つ人、自転車を押す人。この店へ来る客の多くは、遠くから目的を持って訪れているようには見えない。
通り道に店があり、少し座る必要がある。そのときに、四百五十円を払う。
水野は店主を呼んだ。
「すみません」
「はい」
「ここのコーヒーって、どんな味を目指しているんですか」
「どんな味って?」
質問の意味が伝わっていないらしかった。
「豆とか、焙煎とか。店として、こういうコーヒーにしたいというのがあるのかなと思って」
店主は水野のカップを見た。
「苦すぎんと、薄すぎんと」
「はい」
「冷めても飲めるくらい」
答えはそれで終わったように見えたが、水野がうなずくと、店主は少しだけ言葉を足した。
「うちは、豆を目当てに来てもらう店やないからな」
瀬川の店が水野の中へ戻った。
「コーヒーを飲みに来る店ではないんですか」
「コーヒーは飲みに来るやろ。でも、豆の名前を聞きに来るわけやない」
買い物袋を持った女性の前へコーヒーが置かれた。女性はすぐには飲まず、両手をカップの周りへ置いたまま座っている。店主は飲むように促さなかった。
「疲れた人が十五分くらい座って、出るときにちょっとマシになってたら、それでええねん」
水野は自分のカップを見た。
四百五十円。
一週間前に飲んだコーヒーの半分より少し安い。しかし、二つの値段をそのまま比べる気にはならなかった。
瀬川の一杯は、水野に知らない香りを教えた。温度を待ち、味の変化を確かめ、農園や豆の話を聞きながら次の一口を意識して飲んだ。
目の前の一杯は、水野へ何も求めない。
味を探す必要も、説明を覚える必要もない。返していないメールや次の予定が頭に残っていても、コーヒーには関係がなかった。
ここでは、座って飲めばよかった。
「メニューを増やそうと思ったことはないんですか」
「前はもう少しあったで」
「減らしたんですか」
「減らした」
返事は早かった。
「パフェとか、サンドイッチとかもやってた。注文入ったら時間かかるし、材料も残る。一人でやってたら、できること決まってるからな」
「客から、増やしてほしいと言われませんか」
「言う人はおる」
店主は牛乳を小さな容器へ移しながら答えた。
「でも、増やして待たせたら、休憩にならんやろ」
ミルクを温める低い蒸気音が、カウンターの奥で少しずつ高くなり、短く止まった。
「できることを増やすより、いつ来ても同じように座れるほうがええ」
客の希望を聞いていないわけではない。ただ、応えるたびに仕込みや在庫を増やし、注文のたびに待ち時間が変わる店へは戻さない。
水野には、客が休める部分を選んで守っているように聞こえた。しかし店主本人にとっては、一人で続けられる範囲を越えれば、あとが面倒になるということなのかもしれない。
カウンターの高齢男性が新聞を閉じた。
「吉岡さん、勘定」
水野はそこで、初めて店主の名前を知った。
吉岡は伝票を確認し、男性から硬貨を受け取った。
「明日も来るわ」
「新聞の日付、見てから読んでや」
「今日はたまたまや」
男性は新しい新聞を元の場所へ戻し、店を出た。ベルが一度だけ鳴り、扉が完全には閉まらない。
吉岡はカウンターを出て、扉を少し強く引いた。二度目のベルが鳴ると、また換気扇と食器の音だけが店内に残った。
水野はその音を聞きながら、コーヒーを飲み終えた。
店へ入ったときの肩の重さは、まだ少し残っている。仕事が減ったわけではなく、メールも社内の通知も消えていない。
すぐに立ち上がる必要は感じなかった。
買い物袋を持った女性は、ようやくコーヒーへ口を付けていた。窓の外では自転車のスタンドが上がり、タイヤの音が遠ざかっていく。
水野は伝票を持ってレジへ向かった。
「四百五十円」
五百円玉を渡すと、五十円玉が手のひらへ返ってきた。
「ごちそうさまでした」
「はい、ありがとう」
ガラス戸を開けると、ベルが二度鳴り、車のエンジンや自転車のベル、店先で交わされる声が一度に近くなった。
水野は歩道へ出てから、ガラス越しに店内を振り返った。
吉岡は水野のカップを下げ、空いた椅子をテーブルの下へ戻している。次に誰が来ても、同じように座れる位置だった。
水野はポケットの中のレコーダーへ触れた。
録音はしていない。店内の音は耳に残っていた。
食器、新聞、換気扇、短い注文。
どれも特別な音ではなく、そこにいる人へ何かを要求する音でもなかった。
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