2章 「千円の一杯」
第2章 千円の一杯
友人と別れたあと、水野は商店街を南へ歩いた。
朝の店は半分ほど開き、惣菜店の前には銀色の容器が並び始めている。クリーニング店では店員がハンガーをそろえ、歩道の端を通勤らしい人が駅の方向へ流れていた。
レコーダーは上着のポケットへ入れたままだった。録音を終えると、耳だけがしばらく街の音を探し続ける。背後から近づく自転車の距離や、信号の手前で速度を落とす車、開いた店と閉じた店の違いが、イヤホンを外したあとにも残っていた。
交差点の角に、小さな看板が出ていた。
白い板には店名と、その日のコーヒーが三種類だけ書かれている。
パナマ。
ゲイシャ。
ナチュラル。
その横に、千円とあった。
水野は足を止めた。
店は古い建物の一階に入り、ガラス戸の向こうには木製のカウンターと数脚の椅子が見えた。内装は新しいが、柱や天井には以前の店の形が残っている。窓際にある二人掛けのテーブルは、一方だけが空いていた。
ガラス戸を開けると、小さなベルが一度鳴った。店内には、湯を注ぐ細い音が続いている。
カウンターの内側にいた男性は三十代後半くらいで、白いシャツの袖を肘まで折り、黒いエプロンを着けていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
水野が空いているテーブルへ向かうと、男性が言った。
「こちらで注文をお願いします」
カウンターの端にあるメニューには、深煎りのブレンドが六百円、エチオピア産の豆が七百五十円、パナマ産のゲイシャが千円と書かれていた。産地や精製方法の下には、短い味の説明が添えられている。
水野は一番下を指した。
「これをお願いします」
「ゲイシャですね」
男性の返事には、確認以上のものが少し混じった。
「香りがかなり明るい豆です。一般的な深煎りのコーヒーとは、だいぶ違います」
「大丈夫です」
水野は千円札を出した。支払いが終わると、男性は農園名、標高、精製方法の書かれた小さな紙を見せた。
「今日は少し温度を下げて淹れます。熱いときより、少し冷めたあたりのほうが香りは分かりやすいです」
「冷めてから」
「はい。苦いコーヒーを想像されていたら、たぶん別の飲み物に感じると思います」
説明は長くなかったが、初めて飲む客が味を間違えないところまでは伝えたいらしい。
豆が小さな容器の中で硬く触れ合い、ミルの高い回転音が数秒続いた。音が止まると、挽かれた豆の香りが店内へ広がった。
水野は窓際へ座り、向かいの席にレコーダーを置いた。録音はしなかった。
カウンターでは、男性がペーパーフィルターを湯でぬらし、抽出の準備を進めている。湯や器の音は続いていたが、急いでいる音はなかった。
先に来ていた四十代くらいの客は、カウンターで男性と豆の話をしていた。
「これ、前に東京で飲んだものより、発酵感は弱いですね」
「今回のロットは、そこまで強く出ていないです。その代わり、冷めてから花っぽさが残ります」
「この農園、前の年はウォッシュトも出してましたよね」
「出していました。僕は今回のほうが好きです」
二人の会話には、水野の知らない農園名や処理方法がいくつも出てきた。しかし、知識を競っているというより、目の前の一杯がどう違うのかを確かめ合っている。男性も、自分が選んだ豆について話しているときは、先ほどより言葉が早かった。
千円。
普段飲むコーヒーとして見れば、安くはないが、カウンターの客は価格より先に前年の精製方法を尋ねている。
男性が細い口のケトルを傾けると、最初の湯が挽いた豆の中央へ落ちた。豆はゆっくり膨らみ、蒸気と一緒に果物に近い香りが上がってくる。深煎りの香ばしさとは違い、水野は無意識に息を吸った。
湯は一度止まり、再び細く注がれた。
抽出を終えた男性は、白いカップと小さなカードを水野の席へ運んできた。
「最初は熱いので、無理に香りを探さなくて大丈夫です。少し冷めてから、味が変わります」
表面から立つ香りは、コーヒーより紅茶に近かった。
一口飲むと、最初に軽い酸味があり、その後から白い花を思わせる香りが鼻へ抜けた。飲み込んだあとには、熟した果物のような甘さが残っている。
水野がカップを置くと、顔に出ていたらしい。男性が少し笑った。
「だいぶ違いますよね」
「違いますね。コーヒーというより、香りのあるお茶みたいです」
「そう感じる人は多いです」
男性はカウンターへ戻った。
水野はもう一口飲んだ。説明を思い出さなくても、味の違いは分かる。
おいしかった。
千円という数字も、飲む前ほど大きくは見えなくなっていた。
カウンターの客が会計を始めた。
「瀬川さん、このロットを千円で出して、大丈夫なんですか」
水野はカップを持ったまま、二人の会話を聞いた。
「梅田でこの店をやっていたら、無理ですね」
「やっぱり家賃ですか」
「家賃もあります。広い店にすれば、人も必要になりますし。ここなら店を小さくできるので、その分を豆へ回せます」
客は店内を見渡した。
「この場所で、こういう豆を出すのは面白いですね」
「場所だけで言えば、簡単ではないです」
瀬川は答えた。
「でも、一杯千五百円にして駅前へ出すよりは、僕はこっちのほうがいいと思っています」
安く売るためだけに、この場所を選んだわけではないらしい。大きな店へ移り、人を増やし、その費用を一杯へ載せるより、豆へ使える部分を残したい。その選択には、売上だけでは測れない好みがあった。
「僕は千円なら安いと思います」
「そう言ってくれる人に、もう少し見つけてもらえたらいいんですけどね」
客が店を出ると、ベルが一度鳴り、ガラス戸が閉じた。
入れ替わるように、窓の外を作業着姿の男性が歩いてきた。店の前で速度を落とし、白い看板へ顔を近づける。
「千円か」
ガラス越しにも声が聞こえた。
男性は店内を一度見たあと、隣の通りへ曲がっていった。
瀬川もその姿を見ていたが、何も言わなかった。
先ほどの客は、同じ千円を安いと言った。店の外にいた男性は、千円という数字を見ただけで立ち去った。
どちらかが、コーヒーの価値を間違えているようには思えない。カップの中身は変わらず、温度が下がるにつれて酸味は弱くなり、花のような香りだけが長く残っている。
「本当に、冷めてから変わりますね」
水野が言うと、瀬川はうなずいた。
「熱いときだけ飲んで、酸っぱいと言われることもあります」
「説明がないと、分かりにくいですか」
「人によります。説明しすぎると、それも疲れるでしょうし」
良さを伝えたいから説明する。しかし、説明を増やせば、飲む前から客を疲れさせることもある。瀬川は、知っていることを全部話すのではなく、一杯を受け取れるところまでしか話していなかった。
水野は空いたカウンター席を見た。
「近所の人向けに、もう少し安いコーヒーを増やしたほうがいいんでしょうか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。
瀬川はすぐには否定しなかった。
「安い一杯を出せば、入ってくれる人は増えるかもしれません。でも、その人がこの豆を飲みたいとは限らないんです」
「値段を下げても?」
「もちろん、普段飲めるコーヒーがあってもいいと思っています。実際、ブレンドも置いています」
メニューには、六百円の欄もある。
「ただ、この一杯の値段を下げれば解決するかというと、違う気がします」
「千円という値段は、間違っていない?」
瀬川はそこでは迷わなかった。
「間違っていないと思っています。豆の仕入れと、選別と、出せる杯数を考えたら、むしろ抑えています。飲みに来る人は、安いと言ってくれます」
正しい価格だと言い切る声に、先ほどまでの迷いはなかった。ただ、その先の言葉は少し違った。
「でも、その人たちが、ここに店があることを知らない」
通りを自転車が二台続けて通り過ぎ、一台目のベルに少し遅れて、二台目のブレーキが鳴った。
「良い豆を買って、きちんと淹れるところまでは、自分でできます」
瀬川は言った。
「飲みたい人がここまで来られるようにするのは、まだうまくできていません」
値下げをすれば、通りを歩く人の一部は入るかもしれない。しかし、その人がゲイシャを飲みたいとは限らない。反対に、この豆を安いと感じる人は存在していても、店の前を偶然通りかかるとは限らなかった。
「さっきのお客さんは、どこから来たんですか」
「京都です」
「京都から」
「知り合いのロースターが紹介してくれたみたいです。紹介がなかったら、たぶんここを知らなかったと思います」
水野はテーブルの上にあるカードを見た。
農園名。
品種。
精製方法。
標高。
一杯の中には、いくつもの情報がある。その情報まで知りたい客もいれば、知らなくても香りを楽しめる客もいる。一方、朝の通りを歩く人の中には、コーヒーへ休憩や目覚ましだけを求める人もいる。
同じ一杯が、すべての人へ同じ大きさで届くわけではなかった。
水野は最後まで飲んだ。冷めた一口には苦味がほとんどなく、甘い香りだけが残っていた。
「おいしかったです」
「ありがとうございます」
瀬川はカップを下げた。
店を出る前に、水野はもう一度メニューを見た。千円という数字は変わっていない。
外へ出ると、朝の通りはさらに明るくなっていた。隣の店ではペットボトルのケースが台車から降ろされ、向かい側では店頭の値札が差し替えられている。
数歩進んで振り返ると、瀬川は次の抽出の準備をしていた。
店には、空いている椅子が三脚あった。
味に問題はない。
価格にも理由がある。
その一杯を安いと言う客もいる。
椅子は空いたままだった。
商品と、それを欲しがる人が、まだ同じ場所にいない。
考えは文章になりきらず、歩き始めたあとにも残っていた。
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