第16章 信用の範囲
次に一舟の高座を見たのは、日曜日の午後だった。
会場は駅前の文化センターで、前回の会議室より広く、舞台には幕も照明も音響もそろっていた。二百ほどある座席は半分ほど埋まり、前方には高齢の客、後方には家族連れや若い男女が座っている。
入口で受け取ったプログラムには、朝乃家一舟の名前とともに、
真打
と書かれていた。その下には受賞歴と得意演目が並んでいる。
水野は文字を読み、プログラムを閉じた。
最初に見た寄席では、笑い声が客席全体を動かした。小さな会議室では、隣室の声が入っても噺が残った。一舟の名前を見た時点で、今日も人物が見え、客席の反応を受けながら噺が運ばれると、すでに待っている自分がいた。
大きな笑いまで、少し期待している。
開演すると、前座の短い言葉にもよく笑いが起き、後方にいる男の子の声が、ときどき客席の音へ混じった。二人目の噺家が下がって休憩に入っても、水野は席に残った。
隣に座っていた六十代くらいの男性が、連れの女性へプログラムを見せた。
「次が一舟さんやね」
「この人、外れへんから」
女性はそう答え、プログラムを二つに折って鞄へ入れた。
外れない。
毎回、客席を大きく笑わせることなのか。同じ噺を、同じように聞かせることなのか。女性は説明しなかったし、水野もその場では意味を決めなかった。
休憩が終わり、一舟の出囃子が流れた。
一舟は高座へ上がると、日曜日の昼は難しい時間だと話し始めた。朝でも夜でもなく、昼食を済ませた人と、まだ食べていない人が同じ顔で座っている。
前方から笑いが起き、数列ほど進んで消えた。
「食べた人は眠い。食べてない人は腹が立っている」
今度は客席の中央が笑い、男の子の声も加わったが、最初の寄席で聞いたような大きな波にはならない。一舟は笑いが膨らむのを長く待たず、次の言葉へ進んだ。
会場を間違え、出演予定のない建物で出番を待ってしまった失敗談では、水野も声を出して笑った。周囲の反応は思ったほど大きくなかったが、一舟は言葉を足して押し上げようとはせず、その日の客席に残った笑いの長さで話を終えた。
続いて始まったのは、店を留守にする主人が、頼りない男へ店番を任せる噺だった。
主人は、品物を勝手に値引きしてはいけないと念を押す。男は何度もうなずいたものの、最初の客から傷のある品物を少し安くしてほしいと頼まれると、値段は変えず、代わりに隣の商品を無料で付けた。
客席から短い笑いが起きた。笑いはすぐに消えたが、客の注意は高座へ残っている。
次の客が来ると、男は前の失敗を繰り返さないよう、今度は何も付けなかった。その代わり、品物そのものを半額で売ってしまう。
前方の女性が笑い、男の子は父親へ顔を向けた。父親から短い説明を聞くと、男の子はまた高座を見た。
一舟はそのやり取りが終わるのを待ち、一言だけ足した。
「店番というのは難しいもので」
客席が次の言葉を待つ。
「守れと言われたところだけ守ると、店がなくなります」
小さな笑いが起きた。
一舟はそこで説明を重ねず、空になっていく店の話を先へ運んだ。笑いが小さいからといって別の噺へ逃げるわけでも、主人と男を分かりやすい善悪へ変えるわけでもない。主人が戻るまで、二人は同じ店の中にいた。
やがて主人が帰り、男は売上の入った箱を得意そうに差し出した。
「お前、何を売った」
「全部です」
客席が笑った。
「いくらで」
男は胸を張った。
「聞かれた値段で」
今度の笑いは少し長く残り、一舟はその中へ主人の最後の一言を置いた。客席がもう一度笑い、噺は一つの場所へ戻った。
大きな爆笑ではなかったが、人物は消えず、話も途中でほどけていない。
一舟が頭を下げると、そろった拍手が起きた。強さは一定のまま、一舟が袖へ下がるまで続いている。
客席の照明が点くと、隣の女性はプログラムを取り出し、一舟の名前の横へ小さな丸を付けた。
男性が尋ねた。
「今日は静かめやったな」
「うん。あの店の主人、よう見えたわ」
前方では、男の子が一舟の言葉をまねしていた。
「全部です」
父親が笑った。
「そこだけ覚えたんか」
不満そうな声も、過剰に褒める声も聞こえない。客は上着を着て、プログラムを畳み、それぞれ出口へ向かっていった。
水野自身も、最初の高座ほどは笑っていなかった。自分が声を出した場所でも、客席は大きく動かなかった。
外れたとは感じない。
噺の人物は見えた。小さな笑いしか起きない時間にも、高座から注意が離れず、最後まで受け取ったものがある。
文化センターを出たところで、水野は佐伯へ電話を掛けた。
「どうでしたか」
「今日は、前ほど笑わんかった」
「面白くなかったんですか」
「いや。面白かった。大きい笑いは少なかったけど、人物はちゃんと見えたし、噺も最後まで届いた」
「満足したんですね」
「うん」
「期待どおりでしたか」
水野は折り畳んだプログラムを見た。
真打。受賞歴。得意演目。
今日の期待は、その文字だけから生まれたものではない。最初に見た高座も、小さな会議室で見た一席も、先ほどの女性が言った「外れへんから」も入っている。
「前と同じではなかった」
水野は答えた。
「噺も、客席も違うから」
「品質が違った?」
「違うというより、振れ方が違った」
「振れ方?」
「録音でも、毎回同じ波形にはならんやろ。場所も音も違うから」
「でも、録りたかった音が残っていなければ失敗になる」
「今日は、その音が残ってた」
笑いのピークは低かった。しかし、人物が消え、噺が届かなくなるところまでは落ちていない。
「品質にも、振れる幅があるんでしょうか」
佐伯が尋ねた。
「たぶん」
「品質のダイナミックレンジ、みたいなものですか」
「品質にも使うん?」
「水野さんのメーターの話なら。一番高いときだけが、その人の品質ではないでしょうから」
最初の寄席では、客席が大きく振れた。今日の一席は、そこまで高くない。条件の悪かった会議室では、設備が減っても噺が残った。
上限だけではなく、普段どこにあり、悪い条件でどこまで落ちるのか。その範囲ごと、一舟の高座なのかもしれない。
「毎回、最大の笑いを出すことが、一舟さんへの信用ではないと思う」
「では、何を信用しているんですか」
「大きく外さないこと。笑いが少ない日でも人物が消えへんし、噺が届かないところまで落ちない」
「下限への信用?」
「それだけでもない。良い日は、すごく大きく振れる。普通の日も、見に来たことを後悔するところまでは落ちない」
「名前から予想される範囲と、実際に起きる範囲が近い」
「そういう感じやと思う」
「信用どおりだった、ということですか」
その言い方には、少し違和感があった。
信用が大きければよいわけではない。名前や肩書だけが先へ進めば、実際の一席より期待のほうが高くなり、客は見るたびに少しずつ裏切られる。
反対に、実力があっても誰にも知られていなければ、客の側に予測は生まれない。
「信用どおりというより、信用してる範囲と、実際に起きる範囲が同じ場所にある」
佐伯が言葉を繰り返した。
「信用と実態の一致」
「硬いな」
「仮称です」
「また増えた」
電話を切ったあと、水野は駅の入口でプログラムを開いた。真打という文字の下に、今日の一席も収まっている。最大の笑いではなくても、名前から予想した範囲を外れてはいなかった。
毎回、同じピークではない。品質にはダイナミックレンジがあり、その振れる範囲と客が信用している範囲が重なっている。
水野はノートへ、「信用と実態の一致」と書き、改札へ向かった。
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