第15章 本人の中にあるもの
水野は、前日の会場で撮った写真を佐伯へ見せた。
会議机の上に板を載せた低い高座と、中央の座布団。写真の端には、文字を消したホワイトボードが写り込んでいる。
「これが高座ですか」
「会議机の上に板を載せてた」
「落語会の会場には見えませんね」
「始まる前は、僕にも見えへんかった」
昼休みの休憩スペースには二人しかおらず、冷蔵庫のモーターが低く鳴っていた。水野のノートには、前日の続きが開かれている。
条件が悪くなったとき、
何を残せば商品が続くのか。
縮退運転能力
佐伯は写真と文字を見比べた。
「中心は何だったんですか」
「噺」
そう答えれば簡単だったが、会場に噺という物体が置かれていたわけではない。一舟は台本を読むこともなく、声と身体だけで長屋の人物を立ち上げていた。
「噺だけでもない気がする」
「では、何ですか」
「一舟さんの中にあるもの」
「抽象的ですね」
「本人も、声が出なくなるとか、噺を忘れるほうが困るって言ってた。設備より、そっちのほうが大事やった」
「本人の状態が、提供条件になっている」
「そういう感じやった」
佐伯はノートの空いたページに線を引いた。
「何が一舟さんの中へあるのか、分けてみましょう」
「また分けるん?」
「水野さんが、抽象的なまま持ってきたので」
声、演目、構成、人物の演じ分け。水野が挙げるたび、佐伯は短い言葉へ置き換えていった。
「間もある」
「言葉を置く時間ですね」
「時間というより、笑いがどこまで残ってるかを見る感じ」
「客席の反応を読む力」
「それだけでもないと思う」
笑っていない客が、聞いていないとは限らない。次を待っている人もいれば、噺から置いていかれた人もいる。一舟はその違いを見ながら、言葉の速さや説明の量を変えていた。
「人が今、どうなってるかを見る力」
佐伯は少し考え、
人間への理解
と書いた。
「大きい言葉やな」
「水野さんが大きくしたんです」
「でも、噺の人物もそうやろ。変な人を、ただ変な人として話してる感じじゃなかった。格好つけるところも、弱いところも知ってるから、おかしく見えるというか」
「観察したものが、演技や構成へ入っている」
佐伯がまとめると、一舟の一席は、声や演目だけでは説明できなくなった。客席を読み、人物を理解し、その日の部屋へ合わせる判断まで、本人の中でつながっている。
「これなら、会場が変わっても残ります」
「持って歩ける」
「設備のように運搬する必要もありません」
「壊れにくい?」
佐伯は、そこでは同意しなかった。
「設備とは違う壊れ方をすると思います」
「体調?」
「体調、年齢、記憶、喉の状態。本人へ集中しているなら、本人が動けないと提供できません」
内部へ残るものが多いほど、外部条件には強くなる。水野は久保の冊子について考えたとき、そう理解していた。文章を一冊渡しても書く力は失われず、書くほど経験が増える。一舟の芸も、高価な材料を消費せず、大きな設備がなくても客へ渡せる。
しかし、一舟本人がいなければ、同じ一席は成立しない。
「内部資産比率が高いことと、依存が小さいことは別?」
「別だと思います。外部設備への依存が小さくても、一人への依存は大きくなります」
水野はノートへ書いた。
内部にある。
だから安全、ではない。
「ただ、何が本人の中にあるか分かれば、守り方は考えられます」
「喉を守るとか?」
「無理な公演数を入れない。稽古や振り返りの時間を確保する。演目や会場条件を記録する。本人にしか置けないものと、外へ残せるものを分ける」
「弟子へ伝えることも?」
「伝えられる部分なら」
声や身体、その場で客席を測る感覚まで、同じ形で外へ移すことは難しい。一方で、演目の記録、公演の準備方法、会場ごとの条件、うまく届かなかった場面は残せる。
「落語を会社みたいに整理しすぎると、変になるな」
水野が言うと、佐伯はすぐに答えた。
「落語を整理しているのではありません。水野さんが持ってきた『何が残るか』という問いを整理しています」
一舟が客席で見ていたもののすべてを、一覧へ変えられるわけではない。何も分けなければ、人の中にある技術は壊れないという誤解だけが残る。
「公演をするほど、客席を読む経験は増えるんかな」
「回数だけでは決まりません」
「疲れて、同じことを繰り返すだけの日もあるか」
「振り返る時間がなければ、経験がそのまま技術になるとも限りません」
佐伯は「公演」から二方向へ線を延ばした。
一方は、経験へ向かう。
噺が深まる。客席の違いを知る。人物の見え方が変わる。以前の高座を知る客が増え、一舟の名前への信用も積み重なる。
もう一方は、消耗へ向かった。
喉、身体、集中力、時間。
「同じ一席で、両方起きる」
「はい」
「どっちが大きいかは、やり方による」
「休む時間や、振り返る時間も必要でしょうね」
本人の中に価値の原因があるだけでは足りない。その原因を使い続けられ、使ったあとに育てられる運営になっているかどうかまで見なければならない。
「久保さんも、書けば残る」
水野は言った。
「でも、発送ばかり増えたら、書くところまで戻れない」
「価値の中心へ戻れない運営では、内部資産も育ちませんね」
以前より少し厳しい説明だった。
売れば自動的に経験が蓄積するわけではない。提供するほど、価値を生む原因が育つ場合もあれば、周辺の作業や身体の負担によって削られる場合もある。
昼休みが終わるころ、二人は話を切り上げた。
午後、水野は資料を届けるために黒田の席へ向かった。黒田はモニターの見積書を確認しており、数字から目を離さないまま水野の話を聞いた。
「昨日の縮退運転の続きなんですけど」
「まだ続いてるんか」
「設備がなくても残ったものは、一舟さん本人の中にありました」
「そら芸人やからな」
「内部資産比率が高い仕事だと思います」
そこで黒田が答えた。
「人に依存するぞ」
水野は、佐伯と引いた二本の線を思い出した。
「はい」
「人の中にある技術は強い。機械が止まっても、場所が変わってもできることがある。その代わり、人が止まったら商品も止まる仕事になるけどな」
「強さと弱さが、同じ場所にある」
「そういうことや。依存してるからあかん、いう話でもない。その人を見たい客もおるからな」
黒田は見積書の次の行へ進んだ。
「ただ、どこに置かれてる価値かは、分かってたほうがええ」
会話はそこで終わり、水野も自席へ戻った。
机の端には、会社の共有手順書が置かれている。画面の操作方法が画像付きで並び、担当者が変わっても同じ処理を進められるように作られたものだった。
その隣には、水野のレコーダーがある。
同じ機械を使うことはできる。同じ設定に合わせ、録音ボタンを押す手順も共有できる。
ただ、どの場所で足を止めるかまでは書かれていない。
何の音を待つのか。いつ録音を終えるのか。大きな音の後ろに、どの小さな音が残っているのか。
同じ機械を持っても、誰もが同じ音を持ち帰るわけではなかった。
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