第七部 真打の条件
第14章 小さな会場
公演の三日前、水野のもとへ主催者からメールが届いた。
件名は、
【重要】会場変更のお知らせ
予定していた寄席の建物で空調設備の不具合が見つかり、修理の時期が読めないため、公演は近くの市民会館へ変更されるという。中止ではないが、座席数は減り、舞台設備も簡易なものになるらしい。
市民会館は以前の会場から歩いて十分ほどの場所にあり、公演が行われる第三会議室の定員は六十人だった。予約した席はそのまま確保されている。佐伯には別の予定があり、今回は水野一人で行くことになった。
当日、市民会館の入口には、コピー用紙の案内が貼られていた。
朝乃家一舟 地域寄席
二階 第三会議室
手書きの矢印に沿って二階へ上がると、廊下の細長い机で受付が行われていた。
「急な変更ですみません」
入場券を受け取った主催者が言った。
「大変でしたね」
「開催できただけでも、よかったです。音響も照明も、前の会場ほどはできませんけど」
第三会議室の正面には、会議用の机を二つ並べ、その上へ板を載せた低い高座が作られていた。赤い布と座布団がなければ、会議の準備途中にしか見えない。
舞台用の照明はなく、正面を照らす小さなライトが二つ。出囃子は、壁際のスピーカー一台とノートパソコンで流すらしい。
客席との距離も近かった。一番前の折り畳み椅子から座布団までは数歩しかなく、水野が後方へ座っても高座はすぐそこにある。壁は薄く、隣室から講師らしい男性の声がときどき届いていた。
前回の会場で見た客も来ていた。最前列の高齢女性は主催者へ何度も礼を言い、
「近いほうが顔見える」
と笑っている。
開演時刻になると、主催者がマイクを使わずに挨拶した。六十人の部屋なら普通の声でも後方まで届く。
「設備の都合で、いつもとは少し違う形になりますが、最後までお楽しみください」
拍手のあと、スピーカーから出囃子が流れた。音は細く、低い部分はほとんど広がらないが、高座へ人が上がるための合図にはなった。
前座は、客席との近さを最初の話にした。
「今日は、皆さんの顔がよう見えます。こちらの顔も、よう見えると思います」
笑いが起きると、その声は高座へすぐに戻った。以前の会場では前方から後方へ広がっていた反応が、この部屋では演者と同じ場所から返ってくる。
咳払い、衣服の擦れる音、紙を畳む音も近い。演者の声だけを聞ける部屋ではなかったが、客席の小さな変化まで高座へ届いていた。
二人目の落語家が下がり、短い休憩になった。
隣室では講座が続いている。
「ここで一度、姿勢を確認してください」
壁越しにはっきり聞こえ、客席の何人かが顔を上げた。
この部屋は、寄席のために用意された空間ではない。休憩が終われば、隣の声も残ったまま一舟の一席が始まる。
細い出囃子に続いて、朝乃家一舟が低い高座へ上がった。
座布団へ座った一舟の顔は、前回より近かった。客席を見渡したあと、少し抑えた声で話し始める。
「今日は、急な会場変更になりまして。私も最初、違う建物へ行きかけました」
客席が笑った。
「会場変更の連絡を、本人が一番よう読んでない」
笑いが広がると、一舟は長く待たなかった。客の反応がすぐ目の前へ返ってくるため、前回と同じ間を置けば、次の言葉が遅くなる。笑いが消える少し前へ、新しい一言が入った。
声も前回ほど大きくない。後方へ押し出さなくても届く距離で、いつもの声量を使えば、最前列の客へ強く当たりすぎる。
設備が減ったぶん、一舟が何かを増やして埋めているわけではなかった。声を落とし、間を短くし、部屋の大きさへ噺の運び方を合わせている。
本題は、長屋に住む男が隣家へ鍋を借りに行く噺だった。
男は鍋だけを借りるつもりだったのに、隣家の主人から夕食の献立まで尋ねられる。別の住人が調味料や火の起こし方へ口を出し、最後には大家まで話へ入ってきた。
一舟が声と顔の向きを変えるたび、鍋を借りに来た男、隣家の主人、大家が入れ替わる。高座は低く、蛍光灯も明るいままだったが、会議室の白い壁より先に、長屋の人間たちが見えてきた。
その途中、隣室から講師の声が入った。
「次は、肩をゆっくり回します」
一舟の言葉と重なり、客席の注意が一度だけ壁の向こうへ引かれた。
一舟は声を張って押し返さなかった。隣室の声が途切れるまで言葉を止め、直前の台詞を少し変えてもう一度置いた。
客席の注意が噺へ戻る。
男は鍋を借りるだけだったはずなのに、気づけば夕食を作る役まで近所の人間へ奪われ、料理は大家の家へ運ばれてしまう。
一舟が、空になった自分の家を見回す男を演じると、客席から笑いが起きた。
大きな会場のように、笑いが後方から遅れて重なることはない。一か所で始まった声はすぐ隣へ渡り、短い時間で部屋全体へ届いた。
一舟はその笑いが残る位置へ、最後の一言を置いた。
もう一度、客席が笑った。
拍手は前回ほど長くなかったが、設備の足りない会議室で、一席が途中までのものになった感じはしない。噺の人物は立ち、長屋の夕食は大家の家へ運ばれ、客は結末を受け取っていた。
終演後、最前列の女性が隣の客へ言った。
「近かったから、表情まで見えたわ」
「でも、椅子はいつものとこのほうが楽やな」
「それはそうや」
二人は笑った。
近い会場には近い会場の良さがあったが、以前より快適になったわけではない。出囃子は細く、隣室の声も入り、折り畳み椅子へ長く座れば身体が疲れる。
条件が悪くなったことで、新しい価値ばかりが生まれたのではなかった。
客が減るのを待ち、水野は高座の横にいた一舟へ声を掛けた。
「今日も、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「前と違う会場なのに、一席としては同じものに感じました」
「場所が変わったら、場所に合わせます」
「声も違いました?」
「少し小さくしています。近いのに、いつもの声を出したら、前の人がしんどいですから」
「間も短かった気がします」
「近いぶん、反応が早いので。待ちすぎたら、空いてしまいます」
一舟の答えは、設備が少なくても問題はないという話ではなかった。部屋が変われば、やりにくいところも増え、そのままではいつもの噺にならない。
「噺は変えない?」
「噺は同じです」
そこはすぐに答えが返ってきた。
「場所には合わせますけど、噺の芯まで場所へ預けるわけにはいきませんから」
片づけが始まり、スタッフが小さなライトを台から下ろした。電源ケーブルが床を擦り、先ほどまで高座を照らしていた光が消える。
「音響や高座がなくても、できますか」
「顔が見えて、座れる場所があったら。高座がなかったら、床でやります」
一舟は少し笑った。
「膝は、ちょっと痛いかもしれませんけど」
「何がなくなったら、できなくなりますか」
この問いには、すぐに返事がなかった。
スタッフが赤い布を外すと、会議机の上には座布団だけが残った。
「声が出えへんとか」
一舟が言った。
「噺を忘れるとか。そっちでしょうね」
主催者に呼ばれ、一舟は片づけのほうへ戻った。
会場を出るころには、受付の机が畳まれ、壁の案内紙も剝がされていた。第三会議室では赤い布が畳まれ、少し前まで高座だった机が元の高さへ戻されている。
寄席の形は、すぐに部屋から消えていった。
一階のロビーで、水野はノートを開いた。
会場が小さくなる。
音響、照明、座席が減る。
その下へ続けた。
一席は残った。
何が残れば、同じ商品なのか。
翌朝、黒田は複合機の前で資料を待っていた。
水野も印刷物を取りに行くと、黒田が、水野の手にしていた寄席のプログラムを見た。
「また落語か」
「昨日、会場が急に変わったんです」
「中止になったんか」
「小さい会議室でやってました」
「それで?」
「照明も音響も少なかったです。客席も半分以下で」
複合機が一枚、紙を排出した。
「落語はできたんか」
「できてました。声と間は会場に合わせて変えてましたけど、噺は残ってた」
「それ、縮退運転できたいうことやな」
「縮退運転?」
「全部を維持できんときに、中心だけ残して動かすことや」
黒田は複合機の表示を見た。残り枚数は減っている。
「工場でもシステムでも、故障したところへ全部付き合って止まるわけにはいかん。止めるところを止めて、必要な機能だけでも動かす」
「何が中心か、先に分かってないとできない?」
「そうや。何を止めて、何を止めへんかが分かってる仕事は、悪い条件でも動ける」
水野は前夜のページを開いた。
何が残れば、同じ商品なのか。
その下へ書いた。
条件が悪くなったとき、
何を残せば商品が続くのか。
縮退運転能力
複合機のトレーへ、最後の一枚が落ちた。
機械が止まると、事務所の声だけが残った。
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