第六部 仕事に移す
第13章 付加価値を減らす企画
会議室の中央に、三つの浄水ポットが並んでいた。
一つ目は、透明な樹脂製の本体に白い蓋が付いた現行品。二つ目は本体を高耐熱ガラスへ変え、金属製の蓋と太い持ち手を組み合わせた試作品。三つ目は外観だけの模型で、黒い蓋の中央に、フィルターの交換時期を知らせる小さな表示部が付いている。
壁のモニターには、
高付加価値型浄水ポット企画
と表示されていた。
商品企画、開発、営業、物流の担当者が席に着き、佐伯は水野の隣で販売データを確認していた。黒田は窓際の席にいる。
企画担当者は、価格競争が進む既存売場の上位モデルとして、素材とデザインを重視する高価格帯へ入り、贈答需要も取り込む案を説明した。
追加するのは、高耐熱ガラス、金属製の蓋、三種類の交換フィルター、交換時期を管理するスマートフォンアプリ、専用の化粧箱、水と暮らしをテーマにした冊子だった。購入後には使い方の動画と、定期購入者向けの特典も提供する。
「素材、機能、購入体験の三方向から、価格競争を避けます」
黒田が想定価格を尋ねると、企画担当者は一万二千円と答えた。現行品は三千円台で、売場へ並べれば、ガラスと金属の試作品は現在の商品より目立つだろう。
高級感を出す。選択肢を増やす。交換を忘れにくくする。商品の背景を伝え、継続購入を促す。どの要素にも理由はあったが、重なるほど販売価格だけでなく、梱包費、在庫、問い合わせ、説明時間まで増えていく。
黒田は企画担当者へ尋ねた。
「誰が買う」
「現行品からの買い替え客と、デザイン性を求める客です」
「贈答も入れるんやな」
「はい」
「同じ客か」
企画担当者は少し間を置いた。
「完全には同じではありません。ただ、高価格帯の商品として共通する部分はあると考えています」
「今の売場へ置く商品と、贈答品を一つにしてる理由は?」
答えはすぐには続かなかった。プロジェクターのファンが、一定の音で回っている。
企画担当者が用意した資料には、価格帯とデザインの好みに関する既存調査も含まれていたが、現行品を使っている客と、贈答品を選ぶ客が同じ商品を必要としているかまでは分からない。
「付加価値を足す前に、今の客が何を買ってるか確認しよう」
黒田が言った。
「既存の調査資料はあります。価格帯とデザイン嗜好については――」
「この企画の判断に使える調査か」
黒田は説明を遮らず、質問だけを重ねた。
企画担当者は資料を確認した。
「十分とは言えません」
「なら、そこからや。一万二千円にする理由を作るんやなくて、客が何に金を払ってるかを見る」
会議は結論を出さずに終わった。
翌週、水野と佐伯は、長期利用者、使用をやめた人、競合商品へ切り替えた人を含む二十人へ聞き取りを行った。回答だけで商品を決めず、問い合わせ履歴、返品理由、交換フィルターの購入状況とも照合する。
質問したのは、購入時に比較したこと、使い始めるまでに迷ったこと、使用中の不満、交換品の購入方法、買い替える場合の条件だった。
四十代の女性は浄水性能を比較しようとしたものの、違いが分からず、結局は冷蔵庫のドアへ入る商品を選んでいた。フィルターも、違いが分からないなら一種類でよいという。
別の購入者は、白い蓋の爪が欠け、本体は使えるのに蓋だけを見つけられず、別メーカーへ買い替えていた。浄水性能への不満ではなかった。
使用をやめた女性は、交換フィルターの型番を本体の底で確認できず、そのまま使わなくなっていた。使い始めの説明も、フィルターを水へ浸す時間、最初の水を捨てる回数、蓋の取り付け方が複数ページへ分かれ、最初の一回までたどり着けないという回答が重なった。
一方で、ガラス製や贈答用の箱を望む人もいた。ただし、現在の商品を使っている人が最初に挙げる項目ではなく、贈答市場は別に調べる必要がある。
佐伯が回答を表へ加えると、フィルターの選び方、使い始める手順、蓋の破損は、問い合わせ履歴や返品理由とも重なった。二十人だけの好みではなく、既存商品の利用者が繰り返し困っている箇所と見てよかった。
「贈答用の客は?」
水野が尋ねた。
「別に調べる必要があります。今の結果で、贈答市場がないとは言えません」
次の会議で、佐伯は聞き取り結果を頻度順に並べた表を壁へ貼った。
上のほうには、
交換フィルターを間違えたくない。
冷蔵庫へ入る。
すぐに使い始められる。
壊れにくい。
交換品を見つけやすい。
説明が短い。
価格が普段の買い物の範囲にある。
下のほうには、
高級な素材。
複数のフィルター。
スマートフォン連携。
贈り物にできる箱。
が並んでいた。
佐伯は、利用者が多く挙げた項目を青い付箋へ、現在の企画で追加しようとしている項目を白い付箋へ書いた。参加者が一枚ずつ壁へ貼り終えると、青と白はほとんど重ならなかった。
水野は、黒い表示部の付いた模型を見た。
「交換時期をアプリで知らせる前に、どのフィルターを買えばいいか分かるほうが先かもしれません」
開発担当者が答えた。
「現行品と新製品で、フィルターを共通化できます」
「三種類は?」
企画担当者が尋ねた。
「標準仕様の一種類へ絞ります。現行品と同等の浄水性能は維持しますし、必要な除去性能と安全試験も変えません」
「選択肢が減りますね」
企画担当者の言葉には、単に反対しているのとは違う響きがあった。三種類の違いは、上位モデルを説明するために用意した中心的な要素でもある。
佐伯は青い列を示した。
「今回の利用者は、選べることより、選び間違えないことを多く挙げています」
「高性能なフィルターを選びたい人もいます」
「その客向けの商品は、別に考える必要があります。既存売場の上位モデルへ、三種類を全部載せる必要があるかという話です」
企画担当者はすぐには答えなかった。
一万二千円の商品には、上位モデルとして語れる項目がいくつもあった。それらを外せば、客の選択は簡単になる一方、企画として見せられる新しさも減る。
水野は金属製の蓋を持ち上げた。見た目はよく、手に重さもあるが、内側には複数の部品が使われている。
「これ、落としたらどうなりますか」
開発担当者が蓋を受け取った。
「縁が変形する可能性があります」
「蓋だけ交換できますか」
「できます。ただし、専用部品として在庫を持つ必要があります」
開発担当者は現行品の白い蓋も裏返した。
「問い合わせで壊れていたのは、ここです」
細い爪を示す。
「太くできますか」
「できます。外観は少し変わりますが、部品点数は増えません」
「耐久試験は必要ですね」
企画担当者が言った。
「必要です。爪を太くして、開閉回数と落下の試験をやり直します」
金属へ替えなくても、客が壊した箇所は強くできる。見た瞬間の高級感は増えないが、使っているあいだに困る可能性は下がる。
表示部付きの模型について、企画担当者が尋ねた。
「アプリがなくなると、交換時期の案内はどうしますか」
「フィルター本体へ、交換日を書ける欄を付けられます」
開発担当者が答えた。
「動画と特典も、今回は外します」
「贈答用の案は?」
水野が尋ねた。
「別企画にします」
企画担当者はガラスの試作品を残した。
「同じ調査で判断しないほうがいい」
贈答案そのものを否定したのではなかった。現在の利用者へ向けた商品と、贈る理由を必要とする商品を、一つの調査、一つの形へ押し込まないという判断だった。
会議は前回とは反対の方向へ進んだ。
選択負担については、フィルターを一種類へそろえ、商品名と交換品の名前を同じにする。本体と箱の正面へ大きく表示し、オンラインで商品名を検索すれば、交換品が一種類だけ出るようにする。
使い始めと継続については、最初の手順を一枚へまとめ、フィルターへ交換日を書ける欄を付ける。
耐久性については、蓋の爪を太くする。
箱は、店頭で商品の形と交換品が分かる簡素なものへ変える。
アプリ、厚い化粧箱、ブランド冊子、動画、特典は、今回の企画から外された。
試算表の数字も変わった。
一万二千円。
八千円。
六千円。
最終的な想定価格は、四千八百円になった。現行品よりは高い。
「蓋の金型修正と耐久試験は入っています」
開発担当者が言った。
「フィルターの共通化と表示変更も含んでいます」
佐伯が確認した。
「利益は?」
企画担当者が尋ねた。
佐伯は経理から届いた試算を表示した。
「計画範囲に残ります」
営業担当者も表を確認した。
「この価格なら、現在の売場にも置けます」
「梱包サイズも、今の区分に収まります」
物流担当者が続けた。
企画担当者は壁に残った白い付箋を見た。
「付加価値を減らした企画に見えますね。売場で説明できることも減ります」
ガラス、金属、表示部。見た瞬間に分かる変化は少なくなっていた。
吉岡の店で、佐伯が書いた文章が水野に浮かんだ。
全部を良くしない。
客が休めるところを選ぶ。
「減らしたと思います」
水野が答えた。
「でも、客が困っていたところは、前より良くなっています」
「どこですか」
「選び間違えない」
「すぐ使える」
佐伯が続けた。
開発担当者は白い蓋を示した。
「壊れにくい」
「交換品を探しやすい」
営業担当者が言った。
「売場では、説明が短いほうが助かります。高級素材がないことを説明する必要もありません」
企画担当者は三つの試作品を見比べた。
「派手ではないですね」
「はい」
水野は答えた。
「全部のメーターを上げる企画ではないと思います」
佐伯はホワイトボードへ三行を書いた。
顧客が重視する満足点を選ぶ。
そこだけ、期待を少し超える。
それ以外の投入を抑える。
「企画書では、何と呼びますか」
企画担当者が尋ねた。
佐伯は三行を読み返した。
「顧客満足点に対する、選択的な余剰設計」
水野も声に出した。
「顧客満足点に対する選択的余剰設計」
「長いですね」
「長いです」
佐伯も認めた。
「でも、やろうとしていることはそれです」
水野が言った。
会議室の扉が開き、別の会議を終えた黒田が入ってきた。ホワイトボードの文字を読んだ最初の言葉は、
「長いな」
だった。
「仮称です」
佐伯が答えた。
「また仮称か」
黒田は企画の説明を最初から聞き直さず、変更後の数字を確認した。
「価格は」
「四千八百円です」
「現行品より高いな」
「蓋の耐久性と、使い始めの改善を入れています」
開発担当者が答えた。
「浄水性能は落としていません」
「利益は」
「計画範囲です」
「需要は」
「既存売場の買い替え客を中心に見ています」
企画担当者が答えた。
「一万二千円の贈答案は、別の対象へ再調査します」
一度まとめた企画を分けることになっても、贈答案まで捨てたわけではない。企画担当者の中には、高価格の商品を必要とする客もいるという調査結果が残っている。
「問い合わせは減るか」
黒田が尋ねた。
「フィルターと使い始めの質問は減る見込みです。発売後に確認します」
佐伯が答えた。
黒田は白い蓋の裏側を確かめた。
「客に得をさせるのはええ。会社には何が残る」
「蓋とフィルターを共通化できます」
開発担当者が言った。
「専用部品と在庫の種類が減ります」
「問い合わせの分類と、判断手順を次の商品にも使えます」
佐伯は調査表を示した。
企画担当者も、簡素な箱の図面を見ながら続けた。
「使い始めの説明方法も共通化できます」
「次にも使えるか」
「使える形で残します」
「どうやって」
「調査項目と、企画判断の手順を文書にします。発売後の問い合わせと返品理由も、同じ項目で確認します」
黒田はうなずいた。
「なら、進めろ」
承認の言葉は、それだけだった。
会議が終わると、ガラスの本体と表示部付きの模型は保管用の箱へ戻された。厚い化粧箱の蓋が閉じると、内部の仕切りが擦れて低い音を立てた。
その横では、新しい簡易箱の試作品が組み立てられていた。
薄い板紙が折られ、差し込み口が留められると、箱は一度で形になった。
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