第12章 崩れない親切
吉岡の店へ佐伯を連れていった日は、朝から細い雨が降っていた。
取引先との打ち合わせを終えた午後三時過ぎにも空は暗く、駅へ向かう二人の傘を、斜めから雨が濡らしている。
「ここです」
水野が茶色いひさしを示すと、佐伯は店頭のメニューを見た。
「ブレンド、四百五十円」
「前に話した店」
「短い休憩を売っている店ですね」
「本人は、そういう言い方してた」
店内は混んでいた。カウンターは六席のうち五席が埋まり、テーブルも入口に近い一卓しか空いていない。
「二人?」
カウンターの中から吉岡が聞いた。
「はい」
「そこ、ちょっと待って」
吉岡は運んでいたカップを先に客へ渡し、入口側の椅子を一脚だけ奥へ寄せた。
「こっち座り。濡れてるから、入口側やと風当たる」
天井の空調から流れる風は、入口側の席へ直接落ちていた。佐伯は勧められた奥側へ座り、水野がその向かいへ収まった。
店には、濡れた傘や上着の匂いと、湯の熱が混じっている。厨房ではカップが続けて受け皿へ置かれていたが、客の話し声はそれぞれの席から大きくはみ出さず、忙しさのわりに店内は落ち着いていた。
「本当にメニューが少ないですね」
佐伯が短いメニューを閉じた。
「前はもっとあったらしい」
「減らした店」
吉岡が近くを通ったところで、水野はブレンドを二つ頼んだ。
注文が伝票へ加わった直後、四十代くらいの男性が入ってきた。空席がないと分かると、入口で腕時計を確かめる。
「コーヒーだけやから、先に一杯もらわれへん?」
「先には無理やわ」
吉岡は豆を入れたドリッパーから離れなかった。
「すぐ出るやろ」
「前の注文あるから。五分くらい待って。席も空くと思う」
「時間ないねん」
「ほな、今日は無理せんほうがええ」
謝る声ではなかったが、追い返すような強さもなかった。男性は並んでいるカップをもう一度見てから、「また来るわ」と店を出た。
「断るんですね」
佐伯が言った。
「順番を変えたら、ほかの客を待たせるからやろ」
「でも、コーヒーだけなら途中へ入れられそうです」
「入れられるとは思う」
実際、短い注文だった。しかし、一人を先へ入れれば、すでに待っている客の時間が後ろへずれる。吉岡はできないから断ったのではなく、やらないと決めていた。
奥の作業着姿の客が声を上げた。
「吉岡さん、卵もう一個焼いて」
「追加は今、無理やで」
「一個だけやん」
「一個でも焼く場所いるやろ」
「目玉焼きでええから」
「目玉焼きが一番、場所取るねん」
周囲の客が笑い、頼んだ本人も「ケチやなあ」と笑った。
「最初に言うてくれたら焼いた。今から入れたら、後ろの注文止まるからあかん」
「ほな、次頼むわ」
「次は最初に言うてや」
断られた客は、残っていたトーストを食べ始めた。吉岡の返事は素っ気なかったが、客とのあいだに気まずさは残っていない。
「例外を処理しない」
佐伯が小さく言った。
「見てた?」
「見てました」
間もなく、水野たちのブレンドが届いた。白いカップと小さな受け皿、砂糖とミルク。以前と変わらない組み合わせだった。
吉岡はカップを置いたあと、雨で濡れた佐伯の鞄へ気づいた。
「これ、底だけ拭いとき。床に置いたら、また濡れるから」
カウンターから持ってきた乾いた布をテーブルへ置く。
「すみません」
「返すのは帰るときでええよ」
「これは例外ではないんですね」
佐伯は布で鞄の底を拭きながら言った。
「卵は断ったけどな」
「布を渡す作業は増えています」
「でも、店の順番は変わってない」
水野はコーヒーを飲んだ。前と同じ苦味と熱さで、味を探すために意識を集中させる必要はない。雨の中を歩いた身体には、それで十分だった。
カウンターでは、高齢の男性が新聞を横へ広げていた。紙の端が隣の客のカップへ近づくと、吉岡は棚にあった小さな板を男性の横へ置いた。
「新聞、こっち置き。そこやったら広げられる」
「前はここに台なかったやろ」
「雑誌置いてた板や」
「勝手に使うてええんか」
「店のもんや」
新聞を読むための商品や専用席を新しく用意したわけではない。店にあった板を、一時的に場所だけ変えた。男性が紙面を移すと、隣のカップとのあいだに余裕ができ、吉岡はすぐに厨房へ戻った。
雨が強まり、窓を流れる水の筋が増えたころ、入口のベルが鳴った。
入ってきた高齢の女性は、傘をうまく傘立てへ入れられずにいた。
「そのまま外へ置かんといて。風で飛ぶから」
吉岡は途中だった作業を止め、女性から傘を受け取った。
「今日は杖、ないの?」
「忘れた」
「忘れたらあかんやろ」
「取りに帰ったら、また濡れる」
まだ空席はなかったが、新聞を読んでいた男性が会計を始めていた。
「そこ、今空くから。急がんでええよ」
吉岡は男性の会計を済ませ、椅子を拭き、女性が座るまで待った。そのあいだ、コーヒーの抽出は止まっている。
「今のは、工程を止めましたね」
佐伯が言った。
「うん」
「卵は断ったのに」
卵の追加は、今いる客全員の待ち時間を後ろへずらし、同じ注文が続けば新しいメニューになる。一方、杖のない女性を急がせれば、席へ座ること自体が難しい。
同じ例外に見えても、吉岡の中では同じではなかった。
女性が落ち着くと、吉岡は水を置いた。
「コーヒーでええ?」
「うん、いつもの」
注文はそれだけだった。
席を変えること。布を一枚渡すこと。新聞を置く板を移すこと。座るまで少し待つこと。
どれも客の状態に合わせた行動だが、店へ残す仕事の量は違っていた。
「卵を受けたら、その後も工程が増える」
水野が言った。
「焼く。皿を使う。洗う。次の注文が遅れる」
「一人だけ先に出せば、順番も崩れます」
佐伯が続けた。
「でも、席を変えたり、布を渡したりするのは、その場でほぼ終わる」
「あとへ仕事を残さない」
「在庫もメニューも増えない」
客席を見る。ただし、噺の中心は客席へ渡さない。
一舟の言葉と、目の前の店が重なった。
吉岡も店内を見ている。濡れた服や鞄、新聞の広がり、客が席へ座れるかどうかを見落とさない。その一方で、注文の順番と、厨房で回せる工程までは客へ渡していなかった。
「親切やけど、店が崩れない」
水野が言った。
「崩れない親切」
佐伯が繰り返した。
二人の客が続けて会計を済ませると、入口で待っていた客が空いた席へ入った。吉岡はカップを下げ、必要なところだけを拭いて、次の注文へ移る。
手順を何も変えないわけではないが、店全体の順番までは崩れない。
雨が弱まり、客も少し減ったころ、佐伯は借りていた布を返した。
「ありがとうございました」
「鞄、乾いた?」
「はい」
水野は吉岡へ尋ねた。
「お客さんの要望、断ることありますよね」
「あるよ」
「断っても、客を見てないわけじゃない」
「何の話や」
「さっき、卵は断った。でも、席や鞄は気にしてたから」
「全部聞いてたら、店回らんやろ」
吉岡の返事は早かった。
「でも、何も気づかんかったら、ここへ来る理由もなくなる。コーヒーだけやったら、ほかにもあるからな」
「どこまで対応するか、決めているんですか」
佐伯が尋ねた。
「決めてるいうより、増えるかどうかやな」
「何がですか」
「あとへ残る仕事が」
吉岡は、先ほど卵を頼んだ客の皿を示した。
「卵一個増やしたら、焼く仕事も、皿も、洗い物も増える。ほかの客も頼み始めたら、メニューになる」
次に、佐伯から返された布を持ち上げた。
「これは洗濯物に一枚増えるだけや」
「一枚は増えるんですね」
「そら増えるよ。何も増やさん親切なんか、なかなかない」
吉岡は笑った。
「でも、店が回らんようになるほど増やしたらあかん。うちは休憩しに来る店やからな。待たせたり、来るたびにやること変わったりしたら、休憩にならんやろ」
吉岡が守っているのは、工程の効率そのものではなかった。
誰かが静かに座り、温かいものを飲み、少し休んで帰れること。そのために仕事を増やす場合もあれば、同じ状態を守るために客の頼みを断る場合もある。
「良くできるところを、全部良くするわけじゃない」
水野が言った。
「全部なんか無理や」
吉岡はそれだけ答え、次のカップを洗い始めた。
水野と佐伯は、ブレンド二杯分の九百円を払って店を出た。
雨はほとんど止み、道路の端に残った水だけが、車の通るたびに細く揺れている。駅へ向かう途中、佐伯は今日の整理をスマートフォンへ書いた。
すべてを改善しない。
顧客が強く価値を感じる箇所を選ぶ。
その箇所へ、運営を壊さない範囲の余剰を置く。
「また名前を付ける?」
水野が聞いた。
「まだ付けません」
「四百五十円の中に、布一枚まで含まれてたということ?」
「布そのものではないと思います」
佐伯は答えた。
「客の状態へ気づける余地です」
駅の階段を下りると雨音が消え、電車の到着を知らせる放送が近くなった。
断られた卵。変えなかった順番。空調を避けた席。濡れた鞄へ渡された布。
親切の量が多かったわけではない。
吉岡は、誰か一人へできることをすべて行ったのでもなかった。店には客を見られるだけの時間があり、客の側には、四百五十円から予想したより少し居やすい場所があった。
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