第五部 二つの珈琲店
瀬川の店を再び訪れたのは、最初の一杯から三か月ほど後だった。
休日の午後、水野は商店街の入口でレコーダーの電源を切った。早朝とは違い、買い物客の話し声や自転車のベル、店頭販売の声が通りの中で重なっている。
店のある通りへ曲がると、以前にはなかった白い看板が二枚並んでいた。
一枚には、
本日のデイリーコーヒー
五百円
もう一枚には、
予約制テイスティング
毎週土曜日
と書かれている。
以前からあったメニューも残っていた。パナマ産ゲイシャ、千円。価格は変わっていない。
水野が店へ入ると、瀬川はすぐに気づいた。
「お久しぶりです」
「覚えてたんですね」
「ゲイシャを飲んで、近所向けの商品を増やしたらどうかって聞いた人ですよね」
「あのときは、すみません」
「いえ。実際、増やしましたから」
店内には四人の客がいた。窓際では作業着姿の男性が一人で飲み、カウンターの若い男女は形の違う二つのカップを交互に試している。奥では、女性がノートパソコンへ向かいながらゆっくりカップを傾けていた。
以前より客は多いが、満席ではなく、客同士のあいだには空いた椅子が残っている。
カウンターのメニューは、以前の三種類から四種類に増えていた。一番上が五百円のデイリーコーヒーで、その下には以前と同じブレンド、エチオピア、パナマのゲイシャが並んでいる。
「今日は、どれにしますか」
水野はゲイシャの名前を一度見たあと、デイリーコーヒーを注文した。
瀬川が別の容器から豆を取り出すと、短いミルの音が店内へ広がった。
そのあいだに、窓際の男性が会計へ立った。
「これ、飲みやすかったわ」
「ありがとうございます」
「前に表の値段見たとき、俺の来る店ちゃうと思っててん」
男性は五百円玉を置いた。
「これやったら、また来るわ」
「いつでもどうぞ」
男性が帰ると、窓際の席が空いた。水野はそこへ移り、カウンターの男女の会話を聞いた。
「こっちのほうが明るいですね」
女性が片方のカップについて言った。
「温度が下がると、もう少し香りが開きます」
瀬川が答えた。男性は、カップの横に置かれたカードで農園名と精製方法を確かめている。
同じ店内に、短く一杯を飲んで帰った人と、二種類の味を比べている人と、仕事をしながら長く滞在する人がいる。コーヒーを注文するという行動は同じでも、店へ来た理由までは同じではなかった。
瀬川が水野のコーヒーを運んできた。
白いカップは、ゲイシャを飲んだときのものより少し厚みがあり、農園の情報を書いたカードも付いていない。
「今日はブラジルとコロンビアのブレンドです。香りより、甘さと飲みやすさを優先しています」
一口飲むと、苦味は穏やかだった。味を理解するために説明を思い出す必要も、冷めるまで待つ必要もないが、薄いわけではなく、飲み込んだあとには焦がした砂糖に似た甘さが残った。
「おいしいです」
「ありがとうございます」
「安い豆に変えたんですか」
「ゲイシャよりは安いです」
瀬川はそう答えたあと、水野が何を聞いているかは分かっているという調子で続けた。
「でも、価格を下げるためだけに選んだ豆ではありません」
「デイリーコーヒーとして選んだ?」
「はい。仕事の途中や、買い物の帰りに、あまり考えず飲める味にしています」
吉岡の店のブレンドとも違っていた。吉岡は十五分の休憩を崩さない味を作っていたが、瀬川の五百円は、専門店の中へ初めて入る人にも届く一杯に見えた。
「前のゲイシャは、そのままなんですね」
「変えていません。豆も価格も、出し方も同じです」
「安いコーヒーを置いたら、そっちばかり売れませんか」
「売れる日はあります」
「困らないんですか」
「デイリーコーヒーだけを飲んで帰る人がいても、困りません」
「ゲイシャを飲んでもらわなくても?」
「その人が飲みたいものなら」
返事は短かった。
瀬川が本当に飲んでほしい豆を諦めて、五百円の商品へ店を変えたわけではない。千円のゲイシャには手を付けず、その豆を探している人には別の方法で知らせていた。
「ただ、希少な豆を飲みたい人には、別の入口を作りました」
瀬川が示した案内には、二時間のテイスティング会とあった。三種類の豆を少量ずつ飲み比べる内容で、開催日時と予約方法の下には二つの焙煎所の名前が並んでいる。
「知り合いのロースターと一緒に告知しています」
「前に、京都から来たお客さんを紹介してくれた人ですか」
「そのうちの一人です。向こうの客に、こちらの会を知らせてもらいます。こちらからも、豆を買いたい人には向こうを紹介しています」
「店を広告するんじゃなくて、飲み比べの会を知らせる?」
「店の場所だけ告知しても、来る理由が弱いですから」
店の住所だけを広く知らせても、希少な豆を探している人がわざわざ来るとは限らない。反対に、近くを通る人へ農園や精製方法を詳しく説明しても、普段の一杯を探しているだけなら入口にはなりにくい。
カウンターの女性が追加を頼んだ。
「次は、パナマを一杯だけ追加できますか」
「できます。お二人で分けますか」
「はい」
瀬川は一杯を二つの小さなカップへ分けて出した。
希少な豆を飲む二人には、味を比べるための量と時間が用意されている。一方、水野の前にある五百円のコーヒーは、説明を読み込まなくても飲める。
同じ店の客を、同じ商品へ集めようとはしていなかった。
「入口を分けたんです」
瀬川が言った。
「近くにいる人へは、表の看板。珍しい豆を探している人へは、テイスティングやロースターからの紹介です」
「店は同じですよね」
「店は同じです」
「客も、どちらかに固定されるわけではない」
「デイリーコーヒーを飲んでいた人が、別の日にゲイシャを頼むこともあります」
ただし、それを全員に求めるつもりはないという。
「最初から、全員にゲイシャを飲んでもらおうとは思わなくなりました」
水野は五百円のコーヒーをもう一口飲んだ。温度は少し下がっていたが、味の印象は大きく変わらない。この一杯には、それでよかった。
「前は、一つの商品に二つの仕事をさせていたんでしょうか」
「二つの仕事?」
「遠くから来る人が目的にする商品と、近くの人が普段飲む商品」
瀬川はすぐには答えなかった。
カウンターでは、男女がパナマの香りについて話している。ノートパソコンの女性の前にあるのは、水野と同じ五百円のコーヒーだった。
「そうかもしれません」
瀬川は言った。
「ゲイシャ一杯で、店の看板にも、日常の入口にもなろうとしていました」
「難しいですよね」
「豆の価格を下げれば、近所の人が飲むとは限りません。逆に、近所向けの味へ変えたら、この豆を探して来る人には意味がなくなる」
水野が以前尋ねたのは、地域へ合わせた商品を増やさないのかということだった。だが、瀬川が守ったのは、千円の豆の価格だけではない。その豆を飲む意味まで、近所向けの商品へ薄めなかった。
「だから、分けた」
「はい」
「最初は、豆を選んできちんと淹れれば、店としては十分だと思っていました」
瀬川の声には、自分が選ぶ豆への自信がまだ残っている。間違っていたから捨てたのではなく、それだけでは足りない仕事があった。
「良い商品を作ることと、その商品を欲しい人が来られるようにすることは、別でした。近くの人へ来てもらうなら、その人に合う商品も要ります」
「流入の仕事」
「そうですね」
水野が教えた答えではなかった。瀬川は、空いた椅子と店へ入らずに通り過ぎる人を見たあと、自分が飲みたい豆を変えるのではなく、商品と入口を増やしていた。
水野はノートを開き、四つの言葉を書いた。
品質
価格
客
入口
以前は、良い商品に正しい価格を付け、その価格を理解する客がいれば売れると考えていた。
しかし、客がどこかに存在することと、その客が店へ来られることは別だった。さらに、同じ店を利用する人が、同じ満足を求めているとも限らない。
「客」の横から二本の線を引き、一方へ「日常」、もう一方へ「目的」と書いた。
日常の線は、五百円のコーヒーへつながる。
目的の線は、千円のゲイシャへつながる。
二本とも、同じ店へ入っていた。
会計を済ませて外へ出ると、五百円の看板を見た女性が足を止めた。女性は店内をのぞき、ガラス戸を開ける。ベルが鳴った。
入れ替わるように、カウンターにいた男女が出てきた。二人は駅とは反対の方向へ歩きながら、先ほど飲んだ豆の名前を話している。
同じ扉を使った客だった。
店まで来た道も、持ち帰るものも違っていた。

