第10章 価値はどこに残るか
月曜日の午前、黒田部長は会議室へ入るなり尋ねた。
「五分で済むか」
水野が送ったメッセージには、
小規模な事業の継続性について、意見を伺いたいです。
とだけ書いていた。資料までは用意していなかったが、佐伯が直前に簡単な表を作ってくれた。左側には冊子が売れたあとに発生する作業、右側には久保が考えた改善案が並んでいる。
黒田は紙の分量を見た。
「五分では済まなさそうやな」
「すみません」
「ZINEって何や」
「個人で作る小冊子です」
佐伯が説明した。
「この制作者は文章を書いて、印刷や販売も自分でしています」
「それが、うちの仕事と何の関係がある」
責められているわけではなかった。黒田は、話を聞く前に用途を知りたがっている。
「まだ、関係があるかは分かりません」
水野は答えた。
「ただ、売れたら次を書けなくなった、という話が気になって」
「売れたら書けない?」
「注文の確認、印刷、製本、梱包、発送が増えたんです。一冊三百円で、知らない書き手でも試しに買いやすい。その代わり、一冊売れるたびに本人の作業も増えます」
「安くしたから売れた」
「価格だけではないと思います。でも、入口としては大きいです」
「全部、一人でやってるんか」
「今のところは」
黒田は表の左側を読み進めた。
「それで、本人は何をしたい」
「文章を書きたいそうです」
「書く時間を、売る仕事が食ってるわけやな」
久保は仕事から帰ったあと、注文を処理し、その日の発送や製本が終わってから文章を書こうとしていた。書き始められる日は、十一時ごろになる。
「売れへんかったら困る。売れたら書けへん。どっちへ行っても、次の商品がなくなる」
「販売が、制作能力を消費している」
佐伯が言った。
「売上が増えても、価値を作る能力は減っている」
「利益は?」
黒田の問いに、水野は答えられなかった。
「正確には聞いていません」
「そこを見ずに、続くかどうかは分からんやろ。一冊売って、紙代、印刷代、手数料、送料を引いたら、いくら残る。本人の時間まで入れたら、さらに減る」
「はい」
「三百円が悪いとは言わん。三百円で利益が出る仕組みなら、それでええ。ただ、一冊三百円の商品を一冊ずつ毎日送っていたら、時間が合わん」
黒田が先に確認したのは、冊子の評判でも文章の良さでもなかった。一冊売れたあと、金と時間がどう動くのか。その結果、次の一冊を作れるのか。
「発送日は、週に二回へまとめることにしたそうです」
水野が言った。
「それはええ」
「製本方法とページ数もそろえる。既刊はセットにして、イベント販売を中心にする。本文を書き上げてから発売日を決める案も出ています」
「本人が考えたんか」
「はい」
「自分の仕事は、自分が一番よう知ってるからな。外から見て、全部分かった気になるほうが危ない」
水野にも、久保が時間を失っていることまでは見えた。しかし、何をまとめられるか、どの速さなら読者を待たせたと感じるのかは、久保のほうが知っている。
「水野は、何が気になってる」
水野はノートに書いた前日の二行を読んだ。
顧客の支払いには、まだ余地がある。
提供者の時間は、上限へ張り付いている。
「買う側だけが楽でも、続かないことです」
「当たり前やろ」
「はい。でも、買う側へ価格以上のものを多く渡せば、それだけ良い商売になると思っていたところがあって」
「多く渡す、いうのが曖昧やな」
「払った金額より、大きな価値を受け取ってもらう」
「その差額は、誰が払う」
水野には答えがなかった。
「材料を良くする。手間を増やす。価格は抑える。それで客は喜ぶかもしれん。ただ、その差を会社や働く人が負担していたら、長くは持たん」
「久保さんの場合は、本人の時間ですね」
佐伯が言った。
「そうや。客が三百円で喜ぶほど、本人が寝られなくなるなら、それは余剰やない。移し替えただけや」
顧客の側に残った余地が、提供者の側から削られている。それでは全体の余地が増えたのではなく、負担の置き場所が変わっただけになる。
「では、価値はどこから出せばいいんでしょう」
「それを俺に聞くんか」
「意見として」
「事業による。設備を使う仕事もあるし、仕入れが重要な仕事もある。人の技術で売る仕事もある」
黒田は、どこにでも使える答えを渡そうとはしなかった。
佐伯が『乗り換えの途中』を机へ置いた。以前、水野から借りた久保の冊子だった。
「この冊子の場合、価値はどこにありますか」
「読んでないから知らん」
黒田は即答した。
「水野さんは?」
佐伯に聞かれ、水野は冊子を見た。
「文章」
「紙ではなく?」
「紙は必要やけど、あの紙だから買ったわけではない」
「ホチキスは?」
「読んでいるあいだ留まっていればいい」
「透明な袋は?」
「なくても困らない」
「では、価値を生んでいる中心は、久保さんが文章を書く能力にある」
観察し、言葉にして、短い話へまとめる。水野が三百円を払ったあとにも残っていたものは、紙の白さや袋の透明さから生まれたわけではなかった。
「その能力は、一冊売ると減りますか」
紙、インク、封筒は減り、発送には時間も掛かるが、文章を書く力そのものが読者へ渡って、久保の中からなくなるわけではない。
「減らない。書けば、むしろ増えるかもしれない」
「書いた経験が残ります。読者の反応を知り、次の表現を考えたことも」
佐伯が続けた。
黒田は冊子を数ページ読んだ。
「売るたびに、価値の元が強くなるならええな」
「価値の元」
水野はその言葉を繰り返した。
「価値を生む原因、と言ってもいいかもしれません」
佐伯は、先ほどの表の空いている場所へ二つの欄を作った。
提供後も内部へ残るもの。
文章力、観察力、編集方法、読者理解、既刊への信用。
提供のたびに外部へ消費されるもの。
紙、インク、封筒、送料、販売手数料、梱包時間。
「外へ消費されるものがゼロになる事業は、ほとんどないと思います。製品には材料と物流が必要ですし、コーヒーなら豆が減る。落語でも会場費や移動時間は使います」
「違うのは、価値を生む原因のうち、どれだけ次へ残るか?」
水野が尋ねた。
「そうです」
「内部いうのは、会社の中という意味か」
黒田が聞いた。
「会社だけではなく、個人やチームも含めてです」
「設備は?」
「所有していて次も使えるなら、内部へ残るものに近いです。ただ、設備がなければ何もできない場合は、その設備への依存もあります」
「そこは分けたほうがええな」
佐伯は二つの欄へ、蓄積と消費という見出しを加えた。
久保が書く時間を確保できれば、新しい文章が生まれ、その経験は本人へ残る。読者が増えれば、名前や既刊への信用も積み上がり、次に冊子を出したとき、完全に知らない書き手ではなくなる。
一方、発送や製本に使った時間は、必ずしも次の文章へつながらない。同じ作業が増えるだけなら、売れるほど書く時間が減っていく。
「内部へ残るほうが多ければ、続きやすい?」
「条件の一つにはなると思います」
佐伯は答えた。
「ただし、それだけでは続きません」
黒田が先に続けた。
「腕だけ上がって、金が残らん仕事もある。需要がなければ、内部に何が残っても事業にはならん」
佐伯は表の端へ、
利益・需要とは別に確認する
と書き加えた。
「何でも一つの数字で説明しようとせんほうがええ。ただ、見る場所としては使える」
黒田の言葉は、その表を否定してはいなかった。しかし、きれいな分類だけで事業が動くとも認めていない。
「比率にできますか」
水野が尋ねた。
「正確な数値化は難しいと思います」
「でも、概念としては比率がある?」
「あると思います」
佐伯は表の上部へ書いた。
内部資産比率
「仮称です」
「また長い言葉が増えたな」
「短くすると誤解が増えます」
黒田が時計を確認すると、会議を始めてから二十分近く過ぎていた。
「五分は無理やったな」
「すみません」
「久保さんいう人が、三百円を続けたいなら、三百円で売れる仕組みを作らなあかん。本人が安売りした分を、自分の時間で埋めるんやなくてな」
黒田は席を立つ前に、表を水野の側へ戻した。
「売ったあと、何が残るかは見とけ」
「顧客に、ですか」
「両方や」
会議室の扉が開くと、事務所の電話やキーボードの音が戻ってきた。黒田は自席へ戻り、すぐに別の電話を始めた。
水野は冊子と二つの欄を見比べ、ノートへ書いた。
顧客に価値が残る。
提供者には、価値を生む原因が残る。
その下へ、
内部資産比率
と続けた。
会議室には空調の音が残り、扉の向こうから黒田の声が聞こえている。内部へ蓄積するものがあっても、利益と需要まで自動的に付いてくるわけではない。
二つの欄の外には、まだ事業を続けるための条件が残っていた。
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