1章 「上げすぎない」
第一部 余白を録る
第1章 上げすぎない
商店街の時計は、六時四十二分を示していた。
空は明るくなり始めていたが、アーケードの照明はまだ点いており、白い光が閉じたシャッターの列を均等に照らしている。水野誠は小型のレコーダーを胸の前に持ち、通りを友人と歩いていた。
イヤホンを通すと、目の前の商店街が少し違って聞こえた。
遠くで曲がったトラックの低いエンジン音が、建物のあいだを通って近づいてくる。音は一度大きくなり、交差点を過ぎると、ゆっくり右側へ移っていった。
レコーダーの画面では、二本のレベルメーターがエンジン音に合わせて上下していた。緑色の帯は中央付近まで伸びているが、その上にはまだ広い空間がある。
「そこ、もう少し上げてもええんちゃう?」
隣を歩いていた友人が言った。
水野は片方のイヤホンを外した。
「何を?」
「録音の音量。メーター、全然上まで行ってないやん。小さく録ったら、もったいなくない?」
友人の言うことも分からなくはなかった。入力を上げれば、遠くの音や小さな声は、もっとはっきり記録できる。
水野は入力ダイヤルへ指を置いたが、回さなかった。
「この通り、急に大きい音が来るから」
「今、静かやで」
「今はな」
二人の前で、古い喫茶店のシャッターが動き始めた。
錠前の外れる乾いた音に続き、金属の板が持ち上がっていく。板と板の継ぎ目が順番に折れ、低い振動がアーケードの天井まで広がった。
水野はイヤホンを戻した。シャッターの音は、耳で直接聞くより厚く、その震えの奥には店内の食器がかすかに鳴る音まで混じっている。
店主らしい男性が腰を曲げたままシャッターを押し上げ、最後の一段が上がると、店内の暗がりから別の男性が出てきた。二人は短く挨拶を交わしたが、換気扇が回り始めると、小さな声はすぐに低い風の音へ埋もれた。
録音ボタンの赤い表示は、まだ点灯している。
商店街の奥で、自転車のブレーキが短く鳴った。新聞を積んだ自転車が近づき、前輪がタイルの継ぎ目を通るたびに、小さな衝撃音が一定の間隔で続いている。
配達員は二人の横を通り過ぎ、数軒先の店の前で止まった。束ねられた新聞が荷台から持ち上げられ、紙の塊が地面へ置かれる。低く、鈍い音だった。
「そういうのを録りに来てるん?」
友人が尋ねた。
水野は少し考えた。
「そういうのも」
「新聞を置く音?」
「新聞だけじゃなくて、その前後も」
配達員が自転車へ戻ると、スタンドが上がり、ペダルが一度空回りしてからタイヤが動き出した。
新聞が置かれた瞬間だけなら、単なる衝撃音だった。その前には、自転車が近づいてくる音がある。後ろには、配達員が次の店へ向かう音が残る。一つの音だけを切り取るより、その前後まで続いているほうが、水野には聞き直したくなるものだった。
「何に使うん?」
「今のところ、特には」
「使わへんの?」
「たまに聴く」
友人は笑った。
「変わった趣味やな」
水野も否定しなかった。
録音した音を作品として発表しているわけでも、映像へ使う予定があるわけでもない。水野は、日付と場所を付けて音声ファイルを保存していた。
雨が降り始めた駅前。閉店後の地下街。子どもがいなくなった夕方の公園。開店前の市場。コーヒーカップと受け皿が重なる店内。
何かを残したいという気持ちはある。ただ、何を残したいのかと聞かれれば、新聞の音と同じように、一つだけを選んで答えることはできなかった。
商店街の中央付近まで来ると、開店準備の音が増えてきた。シャッターや鍵、台車、段ボール箱、店員同士の挨拶が別々の店から生まれ、アーケードの中で重なっていく。
どれも、それだけなら特別な音ではない。一軒ずつ店が営業を始めるにつれて、通り全体が別の時間へ移りつつあった。
右側の惣菜店から、金属製の立て看板を持った女性が出てきた。
女性は看板の脚を開いたが、片側がうまく固定されない。立て直そうとしたところで看板が手元から滑り、金属の角がタイルへ当たった。
鋭い音が、アーケードの中を走った。
水野の指は反射的に入力ダイヤルへ触れたが、音はすでに鳴り終わっている。レベルメーターは一気に伸び、緑色の帯が黄色へ入り、その先まで跳ねていた。
一番上の赤い表示には触れていない。
惣菜店の女性は周囲を見回し、誰にともなく頭を下げた。止まった台車がまた動き始め、通りには開店準備の音が戻ってくる。
友人が水野の手元をのぞき込んだ。
「今のは大きかったな」
水野は録音を停止した。画面上の波形には、一か所だけ高い山ができており、その先端は表示枠の内側に収まっている。
「これがあるから、上げすぎたくない」
「さっきのまま上げてたら?」
「たぶん、今のところだけ音が潰れてる」
「それ以外は大きく録れるのに?」
「それ以外はな」
水野は録音した音を最初から再生し、イヤホンの片方を友人へ渡した。
遠くのトラックが近づいてくる。喫茶店のシャッターが上がり、新聞の束が地面へ置かれる。店員同士の声は換気扇へ消え、そのあとで金属の看板が落ちた。
音は大きかったが、割れてはいなかった。
金属の角がタイルへ当たった硬さと、板面が遅れて震える音を分けて聞くことができる。その背後には、驚いて止まった台車の車輪と、女性の靴が一歩動いた音まで残っていた。
友人はイヤホンを外した。
「普通に聞いてたときより、いろいろ鳴ってるな」
水野は録音ファイルを保存した。画面に日付と時刻が表示される。
「静かやと思ってたけど」
友人が通りを見ながら言った。
商店街には人が増え始め、開いた店から匂いが流れてきていた。惣菜店では油が温まり、喫茶店からはコーヒーの香りが出ている。
水野はレコーダーを上着のポケットへ入れた。
静かな時間ほど、街は急に大きな音を出す。その音がいつ来るのかは、録音を始めた時点では分からない。
分からないから、すべてを最初から大きくはしない。
画面を消す前に、先ほどの波形をもう一度だけ見た。
高い山の上には、わずかな空間が残っていた。
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